セピア色の調布~その1

1.<移転開設した調布駅舎>
2.<戦時中の女性運転手さん >
3.<進駐軍の施設慰問>
4.<疎開児童のハッケヨイ>
5.<校庭の人間ピラミット>
6.<今はなき神代学寮>
7.<一膳だけの食事>
8.<若き技術者集団 電気試験場神代分室>
9.<調布に来たアジア大会の聖火>NEW!
10.<国領のいまむかし シリーズ①「まだまだ、木造の国領商店街」>NEW!
11.<国領のいまむかし シリーズ②「国領駅は上り下り別の木造駅舎」>NEW!
12.<国領のいまむかし シリーズ③「人も車で、狭くなった国領商店街」>NEW!
13.<国領のいまむかし シリーズ④「今はなき東京ジューキ のこぎり型屋根工場」>NEW!
14.<国領のいまむかし シリーズ⑤「肉屋さん・蕎麦屋さんなど商店がズラリ」>NEW!
15.<炭の粉で作るタドンは夫婦の温もり>NEW!

1.移転開設した調布駅舎

この紹介文の画像

 京王線の調布駅は以前、約200m西の調布銀座の前にありました。京王多摩川駅に向かう急カーブを修正するために、1953年(昭和28)12月10日に今の場所に調布駅舎を新築しました。その新調布駅舎前での記念のパチリです。
 写真を提供して頂いたのが、柱の横で写っている赤ちゃん=現在、ウン歳の斎藤誠一氏です。

☆▼『図説 調布の歴史』(調布市)P242【蔵書検索】
★『京王帝都電鉄三十年史』(京王帝都電鉄(株))
P71~72、231、244【蔵書検索】
★『京王帝都電鉄五十年史』(京王電鉄(株))P300
▼『京王線・井の頭線 むかし物語』P20【蔵書検索】

2.戦時中の女性運転手さん

この紹介文の画像

 吉祥寺駅南口から調布駅北口を結ぶ武蔵野バス。一日に数本走っていました。戦時中は燃料不足で苦労したそうです。当時としても珍しい女性のドライバーが運転していました。行き先表示は「調布」となっています。
 (注)写真の所有者が不明のため、写真を模写しました。実際の写真は、下記の書籍でご覧下さい。

★『三鷹市史(史料・市民の記録編)』(三鷹市)P117【蔵書検索】
▼『写真集 女たちの昭和史』(大月書店)P55【蔵書検索】

3.進駐軍の施設慰問

この紹介文の画像

 上石原にあった二葉保育園上石原分園を慰問した駐留軍兵士の写真です。調布飛行場か立川飛行場の兵隊と思えます。写真を見るとクリスマス会を催しているようです。子ども達の坊ちゃん刈りからも時代が分かりそうです。ただし年度は不明です。

▼『二葉保育園100年のあゆみ』(二葉保育園)P15

4.疎開児童のハッケヨイ

この紹介文の画像

 現在の神代高等学校の校庭に、入間学寮といわれる集団疎開児童の校舎がありました。そこは旧赤坂区(現在の港区)の青南国民学校児童の生活の場でもありました。この写真は、体操の時間なのでしょうか、児童が校庭で相撲を取っているものです。敗戦1年前の姿です。

☆『青南国民学校の神代村疎開』(調布市郷土博物館)P54【蔵書検索】
☆『資料から見た学童疎開(1)』(みんな新聞社)【蔵書検索】
★『青南小学校38期生卒業40周年記念誌』(記念誌発行編集委員会)P47)【蔵書検索】
▽『調布市教育史』(調布市)P300【蔵書検索】
▽『青南百歳』(青南小学校)P54
「戦争遺跡」の学童疎開編をご覧下さい。

5.校庭の人間ピラミット

この紹介文の画像

 「疎開児のハッケヨイ」と一緒に撮られたスナップ写真です。頭に締めた鉢巻から戦争色を感じられます。後ろに写っている建物は、彼ら100名の疎開児童が生活していた入間寮です。また、左後ろの下駄ばきの児童が寂しく見えませんか。

☆『青南国民学校の神代村疎開』(調布市郷土博物館)P54【蔵書検索】
☆『資料から見た学童疎開(1)』(みんな新聞社))【蔵書検索】
★『青南小学校38期生卒業40周年記念誌』(記念誌発行編集委員会)P47【蔵書検索】
▽『調布市教育史』(調布市)P300【蔵書検索】
▽『青南百歳』(青南小学校)P54
▽『青南小学校七十周年記念誌』(青南小学校)P60
「戦争遺跡」の学童疎開編をご覧下さい。

6.今はなき神代学寮

この紹介文の画像

 西つつじヶ丘2丁目にあった学童疎開地「神代学寮」の門柱。かって、青南国民学校児童の4・6年女子が疎開して来た施設です。門柱から「神代学園」の文字が読めます。この女性は学寮の関係者のようで、懐かしさのあまりの一枚ではないでしょうか。
☆『青南国民学校の神代村疎開』(調布市郷土博物館)P54【蔵書検索】
☆『資料から見た学童疎開(1)』(みんな新聞社))【蔵書検索】
▽『調布市教育史』(調布市)P300【蔵書検索】
▽『青南百歳』(青南小学校)P54
▽『青南小学校七十周年記念誌』(青南小学校)P60

7.一膳だけの食事

この紹介文の画像

 都立神田高等家政施設(家庭寮)に疎開してきた五年生男子の食事風景です。ヘリのすり切れた畳、3人掛けの机、食べ盛りの児童には、一膳だけの食事では足りません。風呂番の児童が畑のさつま芋を焼いて食べたため、学寮周辺だけが土ばかりになったとの話もあります。

☆『青南国民学校の神代村疎開』(調布市郷土博物館)P38【蔵書検索】
☆『資料から見た学童疎開(1)』(みんな新聞社)))【蔵書検索】
▼『青南小学校38期生卒業40周年記念誌』(記念誌発行編集委員会)P13)【蔵書検索】
▼『調布市教育史』(調布市)P300【蔵書検索】
▼『青南小学校七十周年記念誌』(青南小学校)P61
▼『青南百歳』(青南小学校)P54
「戦争遺跡」の学童疎開編をご覧下さい。

8.若き技術者集団 電気試験場神代分室

この紹介文の画像

 入間に秘密裏に建設された研究所です。そこで電気関係の兵器を研究していた技術グループには、まだ若い者も数多くいました。仕事の合間なのでしょうか、研究所施設内施設の前での写真です。

☆『日本のエレクトロニクスの源流(上)』(工業調査会)【蔵書検索】

9.調布に来たアジア大会の聖火

この紹介文の画像
写真/1958年5月撮影 写真提供/牧野高明氏(ココスクエア)

 1958年(昭和33)5月に日本で開催されたのが「第3回アジア大会」でした。その聖火リレーの火が調布にも回ってきました。写真は、聖火トーチの交換現場です。場所が慈恵医大病院前の二見屋(鋸屋)の前でした。

10.国領のいまむかし シリーズ①「まだまだ、木造の国領商店街」

この紹介文の画像
写真/1955年撮影 写真提供/牧野高明氏(ココスクエア)

 1955年(昭和30)秋のお祭り風景です。当時の国領狛江通りの商店は、ご覧のように木造かモルタル造りでした。和菓子の亀乃子屋さん、深沢自転車屋さんの看板が見えます。

11.国領のいまむかし シリーズ②「国領駅は上り下り別の木造駅舎」

この紹介文の画像
写真/1972年撮影 写真提供/牧野高明氏(ココスクエア)

 1972年(昭和47)の国領駅前商店街です。手前に京王線の車両が見えます。その手前の斜めの屋根は、下りホームの駅舎なのです。上り電車は踏切を渡らないと乗れないのです。ちょっとのんびりした街の風景です。

12.国領のいまむかし シリーズ③「人も車で、狭くなった国領商店街」

この紹介文の画像
写真/1972年撮影 写真提供/牧野高明氏(ココスクエア)

 まだ、国領駅前が整備されていない商店街です。車の合間を縫って、人は道を渡りました。横断歩道や信号機もなく、1985年当時のヒヤヒヤする風景の一枚です。

13.国領のいまむかし シリーズ④「今はなき東京ジューキ のこぎり型屋根工場」

この紹介文の画像
写真/1977年撮影 写真提供/牧野高明氏(ココスクエア)

 国領町には、戦前からの東京重機工業があり、戦後は東京ジューキとしてミシン製造を手掛けていました。その当時1977年(昭和52)の貴重な通称のこぎり屋根型工場の風景です。ご覧の通り周囲は団地に囲まれています。

14.国領のいまむかし シリーズ⑤「肉屋さん・蕎麦屋さんなど商店がズラリ」

この紹介文の画像
写真/1997年撮影 写真提供/牧野高明氏(ココスクエア)

 1997年(平成8)の国領商店街には、まだ大型店舗は少なく、写真を見ても、肉屋、お菓子屋、酒屋に本屋、蕎麦屋、美容室、回転すし屋さんと、一軒ずつの店舗でした。ですから買い物も一軒一軒回るのです。懐かしい買い物風景です。

15.炭の粉で作るタドンは夫婦の温もり

この紹介文の画像
写真/1950年代半ば撮影 写真提供/斎藤常一氏

 仙川の鍋屋さんは、戦後も燃料の炭を取り扱っていました。昭和30年代には、落ちた炭の粉を練ってタドンが作られました。土団子のように作られるタドンは、練炭のように燃料として広く家庭でも使われていました。そんなタドンには夫婦の温もりが感じられます。