江戸道

「江戸道」という呼称

徳川幕府の根拠地の江戸は、政治、経済、文化の中心でありました。それまでは、戦国時代には北条・武田氏、の支配下に置かれていました。
 徳川家康が豊臣秀吉から、いわゆる「連れ小便」により三河・遠江から関東に転封され、大田氏の江戸城を本拠に江戸の地の支配を強めて当然のことながら、交通の便を強化しました。
 その江戸を基点とした道、逆に目的地とした道を数多く発達させました。五街道をはじめ、その付属街道、脇往還、そしてそこまでに至らない小地域の主要道まで数多くの主要道が、数多く発達した。調布地域を含む江戸周辺の地域では特に顕著であった。その通過する土地においてこれらの道を指して「江戸道」と呼ぶのは各地で見られた。
 それは道標の表示に「東 江戸道」と在るのと同じで、多くはその道の固有の名称として固定していたように思われます。

調布市域の「江戸道」

当市域での「江戸道」は固有名詞として呼ばれ、それは少なくとも大正年間まで一般的に通用した名称を持つ道であった。この道はその西南部、多摩川の矢野口の渡しから甲州街道まで短い区間で、かつ渡しからハケ(府中崖線)までの道は鎌倉道と重なっています。道筋を逆に甲州街道から探ると、当時の下石原宿の東端、現在の小島町一丁目25番地先で南に分岐し京王線を横切り南下すると、今の鶴川街道の道筋に出ます。品川通りの北で西南に折れて多摩川原橋に向かう現在の道ではなく、旧鶴川街道(旧府道調布厚木線)の方が道筋であります。
{新編武蔵風土記}(1830)によりますと、下石原と矢野口・菅との境は多摩川となりその渡河について、下石原の文章の多摩川のところに「冬春ノ間ハ菅村オヨヒ矢野口ノ両村ヨリ度橋ヲ架セリ」とあり、菅村の方には「村ノ西ナル矢野口村ト両村ノ持ニテ渡船アリコレモ年々十月ヨリ翌年ノ三月マデハ仮ニ橋ヲ架シテ往還ニ便ス」と書かれています。これがいわゆる「矢野口の渡し」です。

大山参りとの関係

調布市域の人々のこの道の利用はどうだったであろうか。この道に対する依存度が多摩川河南の諸村ほど出なかったためか、文献や伝承は全くと言っていいほど残っていませんが。推定されるものに大山参りのルートとして僅かな資料らしきものがある。相州(神奈川県伊勢原市)の阿夫利神社に対する雨乞と商売繁盛の信仰で知られる大山参りは、江戸時代中期以後盛んになりまして、市域にも大山講が広く分布していましたが、比較的早く活動が停止した講が多くて、徒歩で代参の道筋などは忘れ去られています。唯一道筋を示すものとしまして、飛田給一丁目25番地の薬師堂境内にある庚申塔の左面に「南相州大山」右面に「北所沢道」と彫られて、道標を兼ねているのがあります。