明治~戦前

深大寺そばの栽培

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深大寺地区の高橋金平さんのそば畑です。

昭和2年頃まで深大寺地区では、どの農家も2、3畝(約2、3百平方メートル)はそばを作付していました。ほとんどが秋そばでした。
そばは酸性土壌を嫌うので、肥料分の少ない痩せた土地が適しています。そばは、毎年作付をしないと次の年のそば種が取れなくなります。これを『種うしない』と言いました。
2年以上たった、そば種は、『ひね種』といって畑に蒔いても、発芽することが少なくなります。
深大寺南町では、新しいそば種を得るため、現在も一畝ほど作付しています。
しかし、毎年同じ畑でできた種をまいていると、劣性になり質が悪くなるため、近年では、福井県や栃木県などから種を仕入れて蒔くようにしています。(参考:調布市史 民俗編)
当時の種まきから製粉まで興味深い記事もあります。(?~P129)

深大寺そば屋ー明治から戦前・戦後

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七夕コンサート風景(深大寺山門より)

深大寺そばについては確説はありませんが、江戸後期から、明治初期にかけて、深大寺山門前に10軒ほどの『一膳めし屋』がありましたが、そば屋さんは一軒だけでした。
当時深大寺は、江戸市中から1日行程の行楽地で深大寺参詣者もかなりあったようですが、原料のそばは、付近の台地面で1戸当り1~2反ほどのわずかな面積で自給的につくっていた程度でした。
戦前は深大寺を訪れる人も少なかったようですが、昭和28年頃から世の中が落ち着くにしたがい、参拝と行楽を兼ねた客が増え始め、現在ではそば屋さんも約20軒以上立ち並んでいます。