深大寺そばの歴史

深大寺そばとは

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参拝者でにぎわう深大寺

深大寺そばについては、江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』に「武蔵国の内いずれの地にも蕎麦を植えざることなけれどもその品、当所の産に及ぶものなしゆえに、世に深大寺蕎麦と称して、そのあじわい極めて絶品と称せり」と記されています。
実が大きく、色が白くて、甘味があり、一升の実からとれるそば粉の量が多いという品質を備え、また深大寺周辺の豊かな湧水を使ったそばは水きりがよく
こうした武蔵野の風土の中から生まれたそばが「きわめて絶品」と賞賛を得ました。

<参考図書>深大寺そばーテーマ展

深大寺そば始まり

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そば花盛り(深大寺城址そば畑の様子)

もともと深大寺周辺の土地や気候は、そば作りに適していました。
1.そば、は朝霞出る地域が良く当地区は最適。
2.昼と夜の温度差が5度以上あります。
3.夏にはとても冷たく、冬には暖かく感じるような、常に水温が17度位の湧水が重要です。
4.土地がやせていること。
 かって神代地区では、農家が300軒余あり、約半分は、食いぶちの蕎麦を作っていました。
一軒5畝(1畝(1畝30坪1反は300坪1町3000坪)

深大寺そばの歴史

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深大寺正門

歴史については諸説あります。

・江戸時代近在の農家から深大寺に寄進されたそば粉を参拝した人に供したのが始まりといわれ

・三代将軍徳川家光が鷹狩の途中立ち寄った際、寺僧が打つそばの味を激賞し、以後、現在の新宿御苑から毎年献上したのが始まりともいわれます

・又、上野寛永寺大明院法親王の御時、深大寺境内にて作ったそばを献上し、賞賛を得て以来ともいわれます。

しかし、三代将軍家光の時代の献上そばであったものが、八代将軍吉宗は幕府財政立て直しの「享保の改革」中で、そばは、地味の悪いところでも栽培が可能なことから、深大寺村(今の調布市)の農家に督励されました。
しかし、大岡越前守は支配下にある武蔵野の名物そばを将軍家に献上するにあたり、[深大寺地方は黒そばで『御用にこれ無し』大岡裁きがありました。(忠相日記に記録あり)・・・
深大寺そばの佳味は、江戸の一般庶民にはなお程遠いもので、ごく一部の上層階級のみのものでしたが、やがて江戸時代後期の文化文政年間(1804年~30年)に、江戸文化人の一人太田蜀山人が、幕府の役人として多摩川を巡視した折に、深大寺に止宿して深大寺そばを広く世に宣伝してからは、江戸の人士とりわけ武蔵野を散策する文人墨客(詩文・書画などの道にたずさわる人)に愛され、それが深大寺そばの名を高めたことになりました。(以上は元祖嶋田家の伝承によります。)
江戸時代に編纂された『江戸名所図会』は、「当寺の名産とす。是を産する地、裏門の前少しく高き畑にして、わずか八反一セ程のよし。都下に称して佳品とす。然れ共真とするもの、甚だ少なし。今近隣の村里より産するもの、おしなべて此名を冠らしむるといえども佳ならず」と記され、元来深大寺の庫裡で供されていたそばが有名になるにつれて、深大寺周辺の村々でもそばが栽培されるようになっていったことがわかります。
 昭和29年(嶋田屋さん)以降、そば屋さんが増え、昭和36年神代植物園が開園してから、改めて深大寺自体と、深大寺ゆかりのそばに注目が集まり、門前町らしくなりました。

<参考資料>
 深大寺そば テーマ展(調布市郷土博物館
『江戸名所図会 上』(人物往来社)
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