長部 日出雄

<作家紹介>

 1934年(昭和9年)青森県弘前市に生まれ、上京して早稲田大学に入学、同校を中途退学して新聞・テレビなどマスコミの仕事をしていました。
 結婚を機に調布市下石原に転居し、その後故郷や東京へ数回転居してますが今も、本籍をそのまま調布においていると、今年(平成17年)調布市立図書館での講演にこられたとき、話されていました。
 三十歳半ばの頃、故郷津軽の厳しい風土に根ざして生まれた津軽三味線の音色に強く魅かれ、これを主題にした小説やルポルタージュを書こうと故郷に帰り、小説「津軽じょんがら節」「津軽世され節」を発表、これらの作品によって、1973年(昭和48年)直木賞を受賞しました。
 その後も「見知らぬ戦場」で新田次郎文学賞、郷土津軽の大先輩太宰治を研究し「桜桃とキリスト」で大仏次郎賞、和辻哲郎文学賞を受賞しています。
 現在も広範な知識と緻密な取材力で、その作品はいつも高い評価をうけ、さかんな作家活動を、続けられています。(今村)

<作品紹介1>

『津軽世去れ節』
 津軽では、大凶作や悪疫が流行し、死者が続出すると、ヨザレ節がはやりました。「ヨザレ」は、こんな世の中、早く去れ、「世去れ」と百姓たちが唄ったのが始まりと言われています。
 ヨザレ節を現在のような、かたちにしたのが、黒川桃太郎(明治19年生まれ)で「嘉瀬の桃」とよばれていました。桃は唄だけでなく、津軽三味線の奏法も編み出し一人で、踊りも達者な芸人でした.
桃のヨザレ節は、当時の惨めな生活の農民達に、爆発的にはやりました。一座を結成して各地を回り人気は抜群で高収入を得ましたが、賭博と酒におぼれ、一座を離れ、一人で流しの流浪を続けます。数年ぶりに故郷の嘉瀬に現れ、開かれた唄会は超満員でした。それから数ヶ月後、青森市のある楽屋裏で、四十六歳の生涯を閉じ、無縁仏として葬られました。
 今、嘉瀬の観音山の山頂にある観音堂に、桃は、数十センチの素朴な木像となって、ひっそりと立っています

<作品紹介2>

『津軽じょんがら節』
  地方紙の記者である健作は、津軽三味線の高橋竹山、木田林松栄の取材をして歩くうち、もう一人の名手の存在を知りました。そして、弘前市のはずれで、小さなソバ屋を営む、高山茂平を探し当てました。
 茂平は昭和の初めごろ、十七歳のとき、盲人で遊芸人のボサマ(注)の弾く三味線の響きに、体の熱くなるのを感じ、翌日からボサマの杖をひき、村々を回り、合間を見ては三味線を習いました。夏祭の宵宮での競演会で他の部落の代表と競い、勝ち抜きましたが、失神し、昏倒してしまいました。父親に勘当され、旅回りの一座に加わり、技を磨きましたが、演奏に熱が入り過ぎると卒倒する癖は直りませんでした。
 醒めた頭で、自分を失わずに迫力のある三味線が弾けない恥ずかしさに耐えられず、芸人を止めてしまいました。北海道で出稼ぎなどして働き、ソバ屋を始めたのです。
 店の閑なときは読書に耽り、その学識から近所の人から茂平先生と、慕われていました。
 ソバ屋の奥から、夜更けの家の中から三味線の音が聞こえてくることも、あったそうです。(今村)
(注)ボサマは、坊様が短縮された言葉。

基本情報

問い合わせ: 調布市立中央図書館 地域情報化担当
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