日活調布撮影所

はじめに:

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思い出を語る植松康郎氏

日活撮影所は1954年(昭和29年)に建設され、戦後の映画黄金時代の数々の映画がここで制作されました。撮影所はハリウッドのワーナー・ブラザースのスタジオを参考に最新の設備を備え、東洋一の撮影所と言われていました。また、夜も撮影のための煌煌たる照明で不夜城のごとく光輝き、東洋のハリウッドとも呼ばれていました。
2017年現在は規模も縮小され、自社作品の製作の他に貸しスタジオとしても運用され映画やテレビドラマの制作に使用されています。
本稿は、2005年末に、日活株式会社撮影事業部営業課 係長 佐藤龍朗氏および日活芸術学院 常任講師(広報担当) 植松康郎氏(どちらも当時)に取材したときのメモをベースに、2006年に植松康郎氏(当時は日活芸術学院顧問)にチェックいただき再構成したものです。
なお2017年2月に、表題をこれまで使用していた「日活撮影所」から2012年に変更された「日活調布撮影所」に修正しました。但し本文の「日活撮影所」は取材時の呼称でありそのままとしています。

ロケーション(ロケでなく場所):

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(地図は日活撮影所HPより)

日活撮影所の場所は、車の場合は中央高速調布インターより約10分、電車の場合は京王線・布田駅下車、徒歩約15分。または京王線・調布駅南口より京王バス(4)乗り場「多摩川住宅西行き・日活撮影所経由」で約10分「日活撮影所」下車のところにあります。
 この撮影所には150坪から180坪の撮影ステージが8つあり、映画やテレビ、コマーシャルなどの制作が行われ、映画においては国内における制作現場の約3割を担っているそうです。

組織:

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大道具製作、まるで大工さん!

この撮影所の組織は、企画製作(映画・ドラマなどの制作プロダクション)、営業(スタジオレンタル、俳優控室・スタッフルームなどのスタジオサービス)、スタジオセンター(編集、録音仕上げ、試写室)、美術センター等に分かれ、撮影・照明・録音・製作・編集・デザイナー・プロデューサーなど約70名の社員スタッフが常時働いているとのことです。
 また美術の大道具製作、装飾、小道具の各会社があってスタジオ内のセットの制作を請負って専門職の方が働いています。主としてステージレンタルで運用されていますが、日活自体の作品も当然製作されております。人気アニメの実写映画化「ヤッターマン」(三池崇史監督)は2009年春封切を目指して最後の仕上げに入っているそうです。

夢の世界1:

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ずらりと並んだ世界の酒瓶

撮影所というところはある種夢の世界だといわれていますが、そのひとつに美術関係の大道具・小道具倉庫があり案内してもらいました。小道具はスタジオ一個分くらいのスペースに、豪華なシャンデリア、全国の銘酒の瓶、指輪、竹光の刀などなど昔のものから最近のものまでありとあらゆるものが保護され、その種類と数には圧倒されました。

夢の世界2:

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塀か石垣の断片?

美術関係ではセット用のタイルの塀や石垣、瓦屋根など専門職の人が型を造ったり、また既にある型から素材を造って塗装をして本物そっくりに仕上げていました。これにもびっくりでした。

食堂:

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往時の面影を残す食堂内部

食堂も印象的なものでした。昔裕ちゃん(石原裕次郎)が座ったっていう場所や小林旭が座ったという場所も教えてもらいました。お昼時間には俳優さん、監督さん、スタッフの人たちの中に未来の日本映画を担うスタッフや俳優をめざすたくさんの日活芸術学院の学生さんもまじって大混雑でしたが、食堂のメニューを拝見したら料金が比較的安いように感じました。
昔、食堂の正面に宣伝部があってスターさんのサロンのようになっていたそうですが、今はその部分は売却されてマンションが建っています。

時代劇風の受付:

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ゲートから見た受付の建物

赤木圭一郎が撮影の合間にゴーカートを運転した撮影所内の道路も歩いて見ました。なだらかな多摩川沿いにお日様を浴びて建つ時代劇風の受付や、背景部の美術さんが描いた浮世絵風の壁画がかつての勢いを残していました。

日活撮影所の歴史1:

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当時の撮影所全景

さてこの日活撮影所の歴史みたいなものをお聞きしたので記して見ます。
 この撮影所は昭和29年に建てられたのですがそれまでは全くの荒地で、たんぼや河原もあって「まむしつばら」といわれていました。所内をご案内していただいた方も「アオダイショウは今でも出るよ」などと冗談をいっておられました。
このころの様子を、植松さんから借用した本『裕次郎と日活アクション』(マガジンハウス)で、いきいきと描写しています。“布田駅で下車して左に折れると、巾2メートルぐれいのデコボコ道が、だだっぴろい畑の中にえんえんとつづいている。右手には多摩川の清流が横たわり、土手にはホルスタイン種の牛が草をはんでいる。のんびりした田園風景だ。この小径のつきあたりに、デンとすわった白亜の建物が、アクション王国を誇る日活撮影所だ”。以来、約半世紀の間に調布の人口が増え、撮影所のまわりはすべてマンション。時の流れをしみじみ感じます。
 昭和12年7月に日中戦争が勃発し、昭和16年9月国策遂行ということで映画用フィルムの民需使用が制限され、劇映画会社は松竹、東宝、大映の3社に統合され製作本数も制限されたそうです。このとき、日活は製作から手を引き、昭和17年、興行と配給だけの会社となりました。その日活の製作部門を継いだのが大日本映画株式会社(大映)なのです。

<参考資料>
 『裕次郎と日活アクション』(東京 マガジンハウス)
【蔵書検索】

日活撮影所の歴史2:

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何度も使われた銀座のオープンセット

 ところが、日本で一番古い映画制作会社だった日活だけに我慢できずに昭和29年3月に現在のところにアメリカのワーナーブラザーズの撮影所を参考にした白亜の殿堂の撮影所を建設し撮影を開始したのです。これを見た大手5社、松竹・東宝・東映・大映・新東宝は5社協定という協定を組んで「日活へ行ったスタッフ、俳優は使わない」と日活の人材引き抜きを封じ込めようとしたのです。しかし、日活の熱意にこたえた、また古い5社に不満なスタッフや俳優が続々と日活に集まったのだそうです。こうしてよせ集めの感があったが、5社のなかで一番年齢層の若いスタッフで伝統に縛られることもなく、自由な企画がパッパッとたてられたのです。当時取材に来た新聞や雑誌の記者たちが、ここが一番活気がある、と言っていたそうです。 
 キネマ旬報(1958年八月上旬号)で、当時の山崎所長は“…一緒に働いてくれた撮影所の全員の人達が、みんなじっくりと、よくがんばってくれました。その人達のがんばりと若々しさが、日活映画に漲り、また支えているのです。”、と語っています。
 こうしたなかで「警察日記」「ビルマの竪琴」「黒い潮」「月は上りぬ」など名作を沢山作ったが、興行的にはあまり思わしくなかったとか。


<参考資料>

『キネマ旬報(59/02特別)』(キネマ旬報社)
【蔵書検索】
『キネマ旬報(1958年八月上旬号)』(キネマ旬報社)
【蔵書検索】

大スターの登場1:

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裕次郎登場!!

こんなふうにあたふたしていた昭和31年に「太陽の季節」が出て、そこから裕次郎が出て来た。ご存知原作者石原慎太郎の弟。この作品ではちょい役のボクサーだったが、劇場の観客から「あれは誰だ」という声があがった。プロデューサーの水の江滝子さんが「あれはスゴイ!!」。案内してくれた社員は「なんであれが」などと思ったそうですが、日活は続けて裕次郎を主役にした「狂った果実」を作って大当り。この裕次郎、「狂った果実」の主題歌のレコーディングでテイチクのスタジオへ入るやいなや「ビールありますか」でスタッフを驚かせた愛酒家だったが、所内絶対禁酒の撮影所の食堂でも宣伝部の冷蔵庫で冷やしたビールをグイッ。それでも誰も恨まなかったというから人徳のせいともいわれています。

大スターの登場2:

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日活の誇るアクションスターたち

食堂といえば食堂の前にスターのサロンともいえる宣伝部があって、そこの窓枠が丁度ひざくらいの高さだったそうです。だからそこから食堂へ行くスターは、裕次郎も、旭も、赤木も高橋英樹も渡哲也も、小百合もルリ子も、みんなスルリと窓を乗り越えて出入りしたのだそうです。なんともいえない愉快な風景ですね。
 この食堂は当時日本の二大ホテルの一つ日活ホテルの直営だったそうですが、そんな食堂の味にも飽きた人たちはたんぼを流れる小川の上に2坪くらい板を敷いた“五万石”という小屋に焼き魚や焼きうどんを食べに行ったそうです。みんな付けで食べていたから、毎月25日にはおやじが請求書をもって正門から入ってくる。それを2階からみた俳優たちはぱーっと逃げちゃう。おやじは今度は裏門へ廻る。そんなことが毎月あったというからまあいい時代だったともいえますね。
 急行が調布に、準急が国領に、各停が布田にとまったころ、撮影所のまわりは全くのたんぼで、その3つの駅から歩いてくる人が多かったが、大スターさんたちが車で入ってくるうちに1間たらずの道がどんどんひろがってしまったそうです。そんなところになんと銀座が出来た。これが有名な銀座オープンセット。「銀座の恋の物語」などという映画もこのオープンセットで出来てしまったというのですから大変なものでした。

TVの台頭とロマンポルノ:

こんな具合に日活をはじめとして映画界は大盛況でしたが、昭和28年にTVがスタートし、34年の皇太子ご成婚、39年の東京オリンピックなどでテレビが強くなって来て映画界はだんだん苦しくなってきたといいます。そのとき東宝はフジテレビ、東映はテレビ朝日にとさっと手を組んでいったのですが、日活はあんなの紙芝居だと一寸のりおくれてしまったのだそうです。
 こうした苦心惨憺の中から昭和46年に生まれたのが「ロマンポルノ」なのだそうです。
 ここで大変な事件が起ったのです。昭和47年1月ロマンポルノが警視庁に摘発されたのです。
 この摘発による裁判は結局無罪で終ったのですが、これが刺激となって、作品の質は上がり、現在なお話題となっている名作が生まれたのです。
 このように日活というのはほんと話題いっぱいの会社で、撮影所も日本映画の歴史そのもののような撮影所だったといえるようです。ロマンポルノで育った日活のスタッフが日本映画を支えているといった自信と意欲に燃えているのが日活撮影所でした。

※日活ロマンポルノの製作は昭和63年に終了しました。

日活芸術学院:

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木村学院長&メッセージ(学院HPより)

 1975年創立、撮影所の中にある、映画の学校。 “創る側”に立ってその一歩を踏み出そうとする若者を、実践的カリキュラムのもと、第一線で活躍する講師陣の優れた技術と情熱を結集して迎えまていす。 ここから多くの映像クリエイター・スタッフ、俳優・声優が巣立っていっています。
 学院長は、日本映画美術界の巨匠・木村威夫氏、昨年、90歳にして長編映画の監督に初挑戦し、『夢のまにまに』を完成させた。

※平成25年3月に閉校しました。

基本情報

所在地 調布市染地2-8-12
ホームページ http://www.nikkatsu.com/studio/
問い合わせ 調布市立中央図書館 地域情報化担当
042-441-6181
作成年 2006年
更新年月 2017年2月
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