三浦哲郎-染地

<作家紹介>

 1931年(昭和6年)青森県八戸市の生まれです。早大経済学部に入学しましたが、家族の都合から中退帰郷、再度上京して早大文学部を卒業、調布の柴崎に間借りしていました。三ヶ月ほどして妻と赤ちゃんを郷里から呼び寄せアパート住まいをするようになりました。このアパートのあったところは当時の町名は上ヶ給、現在の国領六・七丁目辺りです。
 このアパートで1960(昭和35)年名作「忍ぶ川」が生まれました。この作品で芥川賞を受賞し、文壇にしっかりした地歩を築くことができました。
 そののちも数多くの作品で文学賞を受賞し、現在も執筆をつづけ、現在は日本芸術院会員であり芥川賞の選考委員として、文壇に重きをなしています。
 「忍ぶ川」「初夜」「結婚」「みのむし」などのすぐれた作品のほか、「三浦哲郎短編小説全集」(全三巻)「三浦哲郎自選全集」(全十三巻)が編まれています。
 現在は東京都練馬区に住まわれています。
(久米)

<文学賞受賞歴>
・同人雑誌賞  (1955年) 「十五歳の周囲」
・芥川賞    (1960年) 「忍ぶ川」
・野間文芸賞  (1976年) 「拳銃と十五の短編」
・日本文学大賞 (1983年) 「少年賛歌」
・大仏次郎賞   (1985年) 「白夜を旅する人々」
・東奥賞〔特別賞〕(1989年)
・川端康成文学賞 (1990年) 「じねんじょ」
・伊藤整文学賞 (1991年) 「みちづれ」
・川端康成文学賞 (1995年) 「みのむし」

<作品紹介>

『忍ぶ川』
 1960年(昭和35年)『新潮』十月号に掲載され、第四十四回芥川賞を受賞しました。

〔あらすじ〕
 「志乃をつれて、深川へいった。識りあって、まだまもないころのことである」と、この小説ははじまっています。志乃は戦前、深川洲崎遊郭の射的屋の娘として生まれましたが、戦災で栃木県に疎開し、家族は寺の回廊の下で暮らしていました。私(主人公)は深川の木場にいた兄に、数年前まで学費の援助をうけて大学にかよっていたが、その兄は新会社を設立するといって諸方から資金をあつめ、その金をもって行方不明になってしまっています。志乃も私も深川はお互いの苦い過去を思い出させ、納得しあう場所だったのです。
 志乃は、私の通う学校の学生寮の近くにある料理屋の女中でした。「忍ぶ川」というのはその料理屋の名です。最初は学生仲間の寄り合いでこの料理屋へ行ったのですが、志乃に心をひかれた私は、一人で志乃に会うために「忍ぶ川」に通うようになり、ある日、二人で深川へデートしたのです。
 その夜寮にかえった私は、志乃に兄の不行跡の顛末を言いそびれていたのは志乃へ誠実ではないと思い手紙をかきました。文末に「私は、かって自分の誕生日をいわったことがありません」と書きおくったのです。その返事に志乃は「来年の誕生日には、私にお祝いさせてください」とかいてありました。その後「私は志乃に没頭した」のです。
 その秋、「いい男だね」と父にいわれて志乃は父の喉あたりに、ぽたぽたと涙をおとしました。
 その年の大晦日、私は志乃を連れて故郷の北国にもどり、父母と姉だけの小さな結婚式をあげたのです。しかし、心のこもった温かい結婚式でした。
 その夜、二人は初夜を二階ですごしました。雪国の夜は地の底のような静けさです。どこからか鈴の音が聞こえてきました。それが次第に近づいてきます。「馬橇の鈴だよ」というと、「見たい」と志乃がいうので、二人は一枚の丹前にくるまって、雨戸を細めにあけて見ると、馬橇が鈴を鳴らしながら通りすぎていきました。
 翌日、二人は鄙びた温泉に新婚旅行にでかけました。車窓に実家を見つけた志乃は「私たちのうちが見える」と生まれて二十年、家らしい家に住んだことのない志乃は、声をあげ喜んでいました。
(久米)

このページのトップへ↑