品川道

市域の品川道

品川道は東は狛江市境の国領町七丁目64番地先から、西は府中市との境の飛田給一丁目14番地先まで市域の南部を府中崖線からおおよそ300メートルほど北側を並行するように走っています。
 狛江市境から約450メートルの国領七丁目18番地先から西に、布田三丁目20番地先までと、小島町二丁目39番地先から京王相模原線の下を潜り下石原二丁目61番地先の鶴川街道との交差点までの二区間は、新しい「品川通り」として拡幅され、古い道はその中に包合わされてしまいましたので、ほとんど旧状を留めないようになっています。
 それ以外の区間は、4~5メートル幅の道路になっていますが、一箇所だけ調布駅南口の小島町三丁目68から70番地付近にかけてコの字状に南に突出した形に屈折するところがあります。この形になった原因についてははっきりしたことは不明であります。
 この旧道の部分でも周辺の住宅化が進み、昔日の一面の畑の中を行くという風景はもちろん望むべくもないが、畑も片側だけなら見られるものの、両側が畑のまま残っているのは僅か飛田給よりの2・3箇所のみであります。
 ただ、この道に旧集落が沿っていた、東端の国領七丁目地区には屋敷と道の境のケヤキなどが大木の並木となって残っているところがありまして、屋敷森のの景観を借りた古い道の姿の名残といったものを見ることができます。

市域の品川道についての史料

品川道の名は、江戸幕府官選の地誌{新編武蔵風土記稿}に一か所だけ記載があり、当市域内の「飛田給村」の記述の中に次のように書かれています。
  村内往還ノ小路二条アリ 一ハ下石原宿ノ南ニアリ 西上石原宿ヨリ東ノ方小島分村
  ヘ達ス 村内ニカヵルコト六町余 コレオ品川度ト呼べリ 道幅イツレモ四尺許
 また、同じ下飛田給村の記述の中で、飛田給地区の鎮守である現在の道生神社の場所にありて、明治41年に同社に合祀された「稲荷社」(合祀時「飛田神社」)について「村ノ南品川道ノ傍ニアリ」と記載されています。
 小字名が正確にどのくらいの時代までさかのばれるか分かりませんが、土地台帳・旧地籍図にはこの道の名がついた小字が記載されているのを見ることができます。列挙すると次のとおりであります。
  品川道   現 布田五丁目   旧上布田宿
  品川通   現 下石原一丁目  旧下布田原宿
  品川道南  現 国領町六丁目  旧下布田宿
  同     現 国領町七丁目  旧国領宿
  品川道北  現 国領町二丁目  旧下布田宿
  品川道南添 現 小島町三丁目  旧小島分村
  品川道北添 現 小島町二丁目  旧小島分村
 このうち、下石原の品川道以外は市域でも最も飛び地の多かった地域にありまして、これらの小字も小地区に分かれ複雑に点在し、中には品川道から少し離れた場所にある場所もありますが、この「通り」は道そのものを指すのではなく上石原地区から飛田給地区にかけて多い「OO通」という二名表示の呼称でもあります。ただ「品川」がこの道から来たものであることは疑いありません。

西方府中での品川道

品川道が府中市との市境の道にT字形に達した地点の僅か20メートルほど北で左折し府中市内を西に進み道があります。これが品川道の延長でして、府中市では公的な通称を「品川道」としています。

東方の品川道

市域の東方の品川道の状態はにしの府中のように単純ではありません。「品川道」というからには東京の品川が終点であろうと思われるが、その経路は非常に分かりにくいです。
東隣の狛江を出ると「品川道」の名の伝承が少なくなりまして、旧えば・東京の区域に近ずくににつれ武蔵野台地東部の侵食谷の解析が進んだ地域となりまして、江戸時代以前からの集落が多くなりますとともに道路網も古くから発達してん四通八達の状況となるからです。

調布市域から狛江市域に通じる品川道のC/D線

調布市から狛江市の中和泉五丁目に入った品川道は南下してハケ(府中崖線)に接近し、いったんはそれに沿って走りますが、狛江四中前商店街を過ぎハケより少し中に入った同五丁目6番地先で二筋に分かれます。{狛江の古い道}では挿図の関係で、南側の筋をC線・北側の筋をD線と仮称しC線が古い品川道とすいていしているようです。
 この2線は中和泉一丁目4番地先で再び合流し、狛江市役所南方で「狛江通り」に出ます。この「狛江通り」の前身は{狛江の古い道}では「品川道E線」と仮称しています。

品川道E線と筏(いかだ)道・六郷線

前期「品川道E線」は、甲州街道の国領町一丁目44番地先から折れ(昔から「鍋屋横丁」と呼ばれている)、東南に向かい北側が国領町八丁目3番地の東京慈恵会医大敷地になるところで狛江市に入っています。
そして{狛江の古い道}では、「E線は、江戸時代初頭に幕府により五街道が整備され、その一つの甲州道中が品川道の北側を通り幹線道路となったために、甲州街道の国領に出るもう一つの品川道ができたであろう」また狛江では「地元の多くの人が品川道・筏道と呼ぶ」とも書かれています。
 大田区史誌にも{消えゆく筏道}に、奥多摩から筏を川下げしてきた筏乗りたちが六郷・羽田の筏宿にて材木を引き渡した後、家に帰っていくさいこの道を通ったが「矢ヶ崎地区から京王線国領駅まで鍋屋横丁を通り・・と記されているので品川道が筏道であることの証であるといえます。

旧道(旧品川道)の思い出~電話設備ケーブル架設

昭和28年に、世田谷区の砧地区の郵便局に間借りしていた電話が、関東の近郊管理所と言う電電公社の組織から同公社の東京港地区管理所に編入されました。同時に今まで砧・玉川の郵便局に間借りしていた手動の電話が、ダイヤル式の自動電話になり、砧地域は砧電話局として新たに発足しました。
 その当時、狛江地区には50回戦の架空ケーブルしかなかった地域でありましたが、砧局開局時に、世田谷通りを雁追橋で野川を越して狛江地区に400回線の架空ケーブルを架設しまして、狛江地区も砧局として自動式電話が開通しました。
 この地域(砧の東宝・新東宝)の映画関係者の強力な陳情が功を成したとは言えませんが、各映画の上層部の有力者が我々一兵卒まで色々な招待(例えば、山本嘉次郎監督私邸での食事)を受けた記憶があります。
 砧局が開局しまして、狛江地区も東京23区同様に電話が自動式になった事実は狛江町の人々は益々世田谷区編入を望むようになった声も聞こえるようになりました。
  慈恵会第三病院や丸源製作所まで自動式電話が普及しましたにもかかわらず、隣接の調布の電話は相変わらず市外通話は対峙・手動のままで不便を感じていた。特に大映・日活両撮影所は東京の荻窪電話局から区域外電話を架設していましたが、遠距離で声が十分に通じなく、急ぐ場合は電報で対処していました。その料金は当時のお金で月平均30万円近くも達していたそうです。
   そこへ、砧局の自動式電話を区域外電話設備設置料で設備を寄付し、区域外電話使用料を支払えば、ダイヤル通話で私設交換台も使え、社内通話も私設交換台を通さずダイヤルですむので交換手の手間が省けます。そうすれば電報料の支払い相当額の2年分位の設備設置料は相殺されると相談されると概算することになりました。
狛江と調布の区域境(慈恵会第三病院)近くの電柱から、日活。大映撮影所まで50回線のケーブルを架設しまして、日活に20回線、大映に30回線の分岐ケーブルを新設する設備の新規作成費用の概算はケーブル架設回線比率も考慮しまして、両社合計で約700万円でした。それは当初概算した設備料と区域外電話使用料の2年分強でまかなえることに鳴りました。
そこで狛江通りの品川道(旧品川道、今後は全て旧道を指す)入り口の駐在所(現在3地蔵さんの横道)から、曲がりくねった品川道(町道)を椿地蔵(昔の)で日活撮影所に20回線分岐しまして、大映撮影所まで残りの30回戦のケーブルを架設することになりました。
日活撮影所には椿地蔵の分岐から、約200メートルは道沿いに電柱を新設し、それからは適当な道が無く、田圃の稲の耕作者の許可が稲刈りの済むまで待つとの条件で直線にて田圃の中を通すことにしました。
大映撮影所は、ここから更に直進し現在の市役所通りで左に曲がりまして、大映撮影所まで30回線のケーブルを架設しました。
この頃の品川道は左右に曲がりくねっていまして、竹藪や欅のきがはびこり、通常の道路のように片側占有で電柱が建てられなく、東京電力柱に適当に添加しまして、いわゆる制限外添加方式とゆう方法を、調布町役所や農業委員会と電力会社の許可を得まして(両撮影所の協力も得て)どうにか小路を終了することができました。
この工事で、田畑の作物を傷つけた場合は、耕作者に「田畑踏み荒らし料」を支払いました。  その後調布電話局が、郵便局の間借りから現在の調布電話局の開局まで、この区域外電話設備は使用されました。