この箇所では「古道を歩く」の項目としていますので、甲州街道・国道20号線及びオリンピック道路と拡幅されたバイバスについては、「都市化と交通の推移」の項にて述べることにしました。
甲州街道の成立
武蔵野国と甲斐国とを結ぶ道は、戦国時代にすでに各領国ごとに主として軍事的道路として開発されまして、伝馬制も敷かれていたとみられますが、さらに江戸時代になって、大久保長安が大寒屋敷を置いた八王子(横山)と江戸を結ぶ街道が先ず整備されたと考えられています。それがさらに甲府に達しその後に下諏訪宿まで延長され中山道に合流するようになったと言われているが、それぞれの時期については確実な史料がないため確定できません。
江戸時代の調布地区には甲州街道の成立を慶長7年(1602)のこととする伝承があったらしく、それが{新編武蔵風土記稿}の上布田宿の項に記載されているが{調布の近代史料下}でそのまま信を置くことはできないとも書かれています。現在のところ諸説があって一定しないですが、遅くとも慶長11年ごろまでには甲府まで整備され、下諏訪宿までの全線にわたって同じく16年ごろには成立していたということができそうです。
はじめ「甲州海道」と称しましたが、正徳6年(1716)から[甲州道中]が正式名称となりました。ただ、一般的には「甲州街道」の称も用いられまして、明治以降の国道名にも引き継がれました。
甲州街道の宿駅
伝馬役を勤める宿駅の方は、設置の必要に伴い逐次取り立てられていったようで、それがおおよそ整ったのが元和年間(1615~24)あたりとされたようです。江戸時代を通じて、各宿の常備人馬数は25人25匹で、五街道の一つに数えられていたが東海道や中仙道に比べてはるかに少なかったようです。参勤交代にこの道を利用した大名は、飯田、高遠、高島の3家の小藩のみで行う宿駅が五街道の中では比較的多いほうでした。東から国領宿・下布田宿・上布田宿・上石原宿からなる布田五宿は、五つの宿が6日交代で勤め分けをする、きわめて珍しい合宿勤めの例でありました。
甲州街道の発達
五街道中最も寂しい街道といわれたこの街道も、甲斐が享保9年(1724)以降幕領になったために、勤番士の通行が増えたといわれます。されに、江戸時代の中期以降、信濃・甲斐両国からの中馬輸送が増えましたし、江戸近郊と多摩地域では江戸地廻り経済の発達に伴い、江戸への商品供給の道としても重要性が増し、大きな変貌を遂げ明治に至りました。
甲州街道新設の際、現在の「人見街道」や「府中裏道」これらの古い道を利用されなかった宿の総数は45宿ありましたが概して小宿駅で、合宿勤めや片継ぎなど変則的な継ぎ立てったのは、おそらくこの付近は当時幕府の直轄地が少なく旗本領や寺領が多く、原野に囲まれ人口も少なかったので、高井戸と府中の間にもう一宿、公用の人馬役を負担される伝馬役が必要ということは街道設定当初から考えていたようですが、これらの道には沿道に伝馬役を負担させ得る村落がなかったようです。
布田五ケ宿
当時多摩川低地に連なっていたのは国領、下布田、上布田、小島分、下石原、上石原の田方の卓越する6村でありまして、この中には街道成立後の慶安2年(1649)頃の{武蔵田園簿}では、下布田村のように幕領だけで463石という大村もあったが、一村だけでの伝馬役負担では無理があるとして五か村の合宿勤めが採用され、布田五ケ宿(小島分宿は上布田宿の加宿として扱われた)として取り立てられるようになったと考えられます。五宿につついに本陣・脇本陣が設置されなかったことも合宿勤めに関係があると思われます。
品川道との関係
なお、この市域の西から国領までの道筋が以前からの品川道となんらかの関係があるかもしれないとも考えられるのは、飛田給村の中程から東の街道が、府中市で古い時代の甲州街道という伝承がある現「品川街道」の延長に一致すること(逆に当市域の品川道はし境でクランクとなっていますのです。もう一つ類似したことですが、古い地図を見ると国領のいわゆる鍋屋横丁から入って踏切のとこらからさらに左に入る道が、カーブする前の甲州街道の延長とすんなりとつながるのが注目されます。あるいは、甲州街道の開設に当たって西から国領まではそれまでの品川道、またはその支線の一筋が利用されたことがあったかもしれません。
一方、国領から東の道筋は、烏山あたりまで旧来の道と思われるものとの交差等の関係が不自然で、明らかに新設の道であることをも思わせます。