鎌倉道

鎌倉道とは

この紹介文の画像
鎌倉道~国領図書館前

東国で古道というと必ずといっていいほどに「鎌倉道」「鎌倉街道」が取り上げられます。鎌倉幕府の成立により鎌倉が政治の中心地となり、各地から御家人などが鎌倉へ向かう道ができました。
これに由来する中世の古道である。関東の北部に達する「髪道」「中道」「下道」が三幹線として特に有名でありますが、その推定ルートのほかに各地に数多く存在する「鎌倉道」・「鎌倉街道」の伝承を持つ道はその枝道・脇道、あるいは間道だったといわれています。
しかし、いま土地の古老などがその名を口にする道がすべて中世に遡ることのできる道かというと、土地の歴史や古い道について歓心が持たれるようになり、「鎌倉街道」の名が生まれた江戸時代中ごろから、そこが近世以前に遡る村であれば、鎌倉の昔からすでにあった古い村という「誇り」の一つとして物語られてきたともいえます。
これまで鎌倉道・鎌倉街道として市内に伝承する道は6条を数えますが、必ずしも近世・近代においてもよく利用された道幅の広い道ばかりとは限らないから、基本地図に使用された地図には小径としか乗っていない区間もあります。
それぞれについて鎌倉方向すなわち南から北に向ってそれらの道をたどることにします

(1) 入間町二丁目から緑ヶ丘一丁目の鎌倉道

「調布市史 上巻」(1990)に記載されている「鎌倉道」の一つであります。ただし、入間町から北のルートについては見解の違いもあります。
 市域の最も東部にあるこの道は狛江市から入ってくる道であり、{調布市史 上巻}で入間町二丁目の明照院付近に鎌倉道の伝承が残っているといわれていますし、「それから先の道は判然としないが、入間川沿いに逆のぼり、三鷹市との境を深大寺東町方面に達していたようである」と書いてあります。
 例えば、西つつじヶ丘四丁目52番地に入ってから中台段丘崖を登って、都道114号の西方の東つつじヶ丘三丁目48番地先から同35番地先までの農家の屋敷や林などの中を緩く左右に屈折して旧道らしい雰囲気を残す道筋があります。さらに入間川を渡り、都道114号と中央学園通りの分岐する入間歩道橋のある交差点まではほぼ確定することはできますが、このあたりから先のルートについては伝承・がつぎの5本に及び、たしかに判然としないものがあります。
諸説1=
入間川を渡らずに東つつじヶ丘三丁目35番地先から北西に折れ、中台段丘面上をつつじヶ丘駅方面に向かい同駅東側の踏切から滝坂小学校敷地の中を北上して甲州街道滝坂の新旧分岐点近に出る道です。
所説2=
この交差点から南に折れて入間町一・ニ丁目の「七曲がり」の坂で崖上に出る道で「狛江の古い道」でこの道の可能性を上げています。
所説3=
反対に北に折れてすぐに都道114号の北側に沿って緩く屈折しながら崖を登り始めまして、若葉町三丁目25番地46~49号前の私道などにわずかの痕跡を残すのみの道です。
所説4=
もう少し北に進んで、市立第四中学校校庭横から東に入り、若葉町三丁目21番地先へ「大坂」で登る道でして、「狛江の古い道」でもこのルートを上げてます。
所説5=
第四中学校からそのまま入間川の谷に沿って崖線下、旧武者小路実篤邸下などを北上し、旧甲州街道の滝坂の裾、東つつじヶ丘一丁目15番地に出る道です。

(2) 染地二丁目~深大寺東町三丁目の鎌倉道

この紹介文の画像
鎌倉道分岐~下布田あたり

鎌倉道6道のうち、多摩川を南の川崎市中野島付近から染地二丁目あたりに渡ってくる道筋があり、比較的古くから鎌倉古道として認められていたようで、「調布百年史」(1968)には、多摩川南岸から「日活撮影所を通り椿地蔵へと走る古道」があり、「この道はさらに佐須・深大寺・絵堂を経て三鷹市に向かって北上している」と書いてあります。
市域に入ったこの道は、東西二ルートに分岐していまして深大寺方面ではなく、東側によりたいと思います。
多摩川を渡ったところからは道筋を全く失っているが、「ライオンズマンション調布」のC棟の東側あたりを通っていたと推察されまして、レオ保育園の北から旧道が残っています。ここにかつて三本松と呼ばれる松ノ木があり、渡船の綱を縛りつけるのに利用されたとの伝承もあります。
ここから北西・北北西に向かい染地二丁目4番地先で新しい「布田南通り」と合流しハケを上り、国領町六丁目8番地先で分岐点になります。ここからしばらく北東方面に走り途中で国領町四丁目12番地先から都道、京王線、甲州街道を断続的に2mほどの面影を残して横切って進みます。
野川の分流子橋掘から先は元は水田で、少しの間痕跡を失うが方向からすると野川をちょうど今の馬橋のあたりで渡ったと推察できます。この付近は旧金子村馬橋と柴崎村馬橋が接している場所で、馬橋が単に橋の名ばかりでなく地名の証拠ともなっています。
ここから、菊野台一丁目53番地先から甲州街道の西側に出て「佐須街道」「上の原通り」を横切り、旧金子村(菊野台一丁目・西つつじヶ丘一丁目)との境を北上して国分寺崖線の急坂で江戸時代に十王像が安置されていたために「十王堂道」と名づけられた坂道を経て「上ノ原五差路」から三鷹市に通じています。

(3) 染地二丁目~深大寺北町六丁目の鎌倉道

この紹介文の画像
鎌倉道~三鷹通り榎橋近く

椿地蔵で品川通りを越え布田駅西側で京王線、常性寺の手前で旧甲州街道を横断し、そこから「三鷹通り」を八雲台小学校角で国道20号線を横断して榎橋の東隣に架かる旧道の無名橋で野川を渡り、佐須街道を横断してから東に入り深大寺南町一丁目9番地先の三叉路に出ます。ここで道は二手に分かれまして、左の道を進んで再び都道に出まして中央自動車道の下をくぐりまして深大寺の門前に向かいます。そして稲荷坂を上がって深大寺小学校南東隅から再び坂を下り、深大寺城跡の東の谷の東側斜面下を通って真っ直ぐ深大寺まえに通じていたように推察されます。
一方、三叉路から右に入り国分寺崖線に正面に向かう道も古くからのものといわれ、深大寺南町一丁目15番地の崖の斜面に位置する井上家の屋敷を南から東へと回り込むように上ってから中央道を池ノ上橋で渡り、深大寺派出所のところで三鷹通りに出ます。
深大寺門前から先は、深大寺通りを西に進み途中深大寺元町五丁目5番地先で北に折れ神明社の前からいったん武蔵境通りをたどり神代植物公園前の同町四丁目31番地5先から西に入りすぐに北に転じて山野の庚申塚の横を通り深大寺北町六丁目24番地先にて三鷹市との市境に出ます。その他、深大寺近くで色々な枝道も在るようです。

(4) 多摩川七丁目~調布ヶ丘一丁目の鎌倉道

この紹介文の画像
鎌倉道~多摩川6ー32

多摩川七丁目30番地あたりに多摩川渡河地点の痕跡があります。現在の道は府中用水を桜橋で渡り、染地一丁目と多摩川六丁目の境、布田小学校の西を北上しまして、ハケ(府中崖線)を登ります。布田天神の旧地と伝えられています「古天神」の東方約100メートルの地点まで来まして、それから布田5・6丁目の境を進んで布田五丁目32番地に鎮座する白山神社のまえを通り、品川道の旧道と新しい品川通りを横断しまして、京王線まで布田三丁目・四丁目の境を進みます。電車の線路を越えると布田一・二丁目の境の道となりまして、旧甲州街道を横断してから国道20号「調布ヶ丘」交差点に出ます。
 京王線を渡った東側、布田二丁目34番地には蓮慶寺がありますが、この道は品川通り以南は現在「白山通り」の通称もあります。
 国道を横断してからは調布ヶ丘1・2丁目の境の道となり、緩く西にカーブしまして次第に北西に向かうようになります。このあたりでは「鎌倉道」の伝承はほとんどなくなりまして、道筋もこのまま御塔坂に通じるのか今の武蔵境通り出て、前項(3)の鎌倉道に合流しているようで調布ヶ丘3丁目1番地先で右折しまして、野川を渡り深大寺元町二丁目12番地の池上院の西側の坂道を越え深大寺門前に達していたようですが。何れも現時点では明確にはできません。

(5) 多摩川三丁目~富士見町四丁目の鎌倉道

市域で伝承のあるルートは、多摩川北岸堤防内の多摩川三丁目65番地先から北東に向かい、車橋で府中用水を渡り稲荷橋(橋跡)交差点を経て、下石原三丁目65番地先で西方に折れるまでの区間は「江戸道」と呼ばれていたみちであります。「鎌倉道」が江戸時代になり甲州道に接続されたために、主に多摩川南岸の人々からはこのように名を変えて呼ばれるようになったと考えられます・
 この道を西に入ったところは下石原の小字「ハケ通り」の地で、甲州道沿いの下石原宿が形成される前の中心部落のあったところとされてその一帯を「本村」と称する伝承がわずかに残っております。
 道はすぐハケを離れ北に向かって鶴川街道を渡り、ノートルダム調布修道院・マルガリタ幼稚園の東・北側を通り、太田塚の西方下石原二丁目32番地先で新品川通りと旧品川道を横断して北上し、京王線を横切り下石原一丁目40番地先からは旧下石原宿の地割に従って同町31番地先から北に入り、北五十間道・旧甲州道を越える。ここまでの道は、周辺が旧甲州道を軸とする短冊形地割となっているのに対して弧状を描いたりするのが目立つた場所でありまして、古道の道筋らしさが見えます。