(1)砂利の商品化
この砂利の種類に、河床面の河砂利、海岸の汀線付近の海砂利、河岸段丘や海岸段丘の山砂利などがありまして、これらは角のない円礫からなります。大きな岩石を人工的に砕いて角礫としたものは、砕石とよび広い意味では砂利の仲間です。
鉄道は線路のバラスとして大量の砂利を使うから、鉄道発達の初期の時代から砂利輸送との関係は深かった。しかし、砂利の需要が急増しましたのは、土木・建築用材として用いられていました煉瓦や石材が、鉄筋コンクリートに代替されていく時代からです。
日本では、セメントの製造は明治初期から始まりますが、量的には当時は輸入品が多く、かつ高価でもありまして、煉瓦や石材建造物の目地(接着剤)として使われていました。
セメントの需要は徐々に増えてきまして、国産品も増加しましたが、明治末期に鉄筋コンクリート工法が日本でも実用化されまして、砂利の商品価格は急に高まりました。
コンクリートを造るには、セメント1に対し、砂3、砂利6を必要とします。大正後期以降、鉄筋コンクリート構造物は急速に増えましたが、特に関東大震災後の東京・横浜では、鉄筋コンクリートの耐震性の強度が注目され、復興に際しては従来の石材に代わり鉄筋コンクリートが多用されるようになりました。
これによりまして、大量の砂利が必要になりまして、大都市周辺の河川敷が最も容易に砂利を採取できる供給源として注目されてきました。そして鉄道はその輸送に大きな役割を演ずることとなりまして、ついには砂利の輸送を目的とする鉄道も数多く登場するようになりました。
(2)砂利の輸送
従いまして、遠距離からの輸送は極端に不利でして、第二次大戦時までは100キロメートル以上の輸送はまれであったようです。このような状態のもとで多摩川の砂利が有利な立地条件を持っていたことは容易に理解できます、だからこそ供給量も抜群に多かったのです。「砂利の鉄道局別発着比率(1925年)」
砂利の採取は、一定の区域の採取権を府県から許可された採取業者によって行われました。早い時期はは直接人力によって堤防の内外の河床から採掘した砂利を現場でふるいにかけて選別し、馬車または手押のトロッコによって最寄の鉄道駅まで運ばれていました。
(荻本純一氏の「風雪」の96頁 トロ軌道跡図参照、荻本砂利店は創業当初からトラック輸送中心手あったが 採取現場から砂利置場の道路が未整備で、この間にトロ軌道が敷かれた)
(3)多摩川をめぐる砂利鉄道の発達
その後、明治末まで多摩川や相模川の砂利採掘と輸送のために、国鉄線につながる専用鉄道が次のように免許されました。
阿 部 貞 助 武蔵境―多摩 8,3キロ 1908年6月 8日
玉川砂利鉄道 戸手―稲田 17,5キロ 1908年7月29日
脇田利兵衛他4名 相模川西岸国鉄砂利採取線―相模川岸 0,2キロ
1909年4月14日
酒井匡他3名 立川―多摩川岸 2,2キロ 1909年6月 9日
東京砂利鉄道 国分寺―下川原 6. 8キロ 1910年2月24日
このうち、東京砂利鉄道が1910年(明治43)度中に開業し、おそらくこの鉄道が最初の本格的な砂利鉄道と考えられます。「浅田貞助」の武蔵境―多摩間専用鉄道は、1910年11月15日免許です。彼が筆頭発起人となり、新たに多摩鉄道という一般営業の軽便鉄道に切り替えられまして、1922年に是政まで開通させました。なお、玉川砂利鉄道や「脇田と酒井」の鉄道は未開業に終りました。
最初の玉川砂利鉄道は、1920年5月25日の砂利採取権とともに国有化されました。これは、東京―上野間のいわゆる市街高架線の建設に用いられる砂利を国鉄自ら供給するためでありました。後に、東京競馬場支線と呼ばれて一般営業化されるようになり1973年(昭和48年)年に武蔵野線の開業まで存続していました(路蕃の大部分は武蔵野線に転用され、先端に近い部分はサイクリング兼遊歩道として整備)。 1916年(5月)年には京王電気軌道が調布から分岐し多摩川原に達する支線を建設しました。そして、のちに砂利採取の跡地を利用して遊園地としたのが京王閣などであります。
(4)多摩地方における砂利輸送
当時この線は国分寺駅の側線扱いになっていまして、もともとは砂利の採掘・輸送の専門の鉄道としまして1910(明治43)年に開業しまして、1920(大正9)年に国有化された東京砂利鉄道の後身でありました。同様に砂利鉄道として開業し、武蔵境駅で中央線に接続していた多摩鉄道(現西武多摩川線)から積み出された量も多かったはずです。こうして、多摩川の砂利輸送は、立川、国分寺、武蔵境の3駅からの発送によるものが最も多かったようです。
また、多摩川からの砂利輸送には、中央線のほかに、京王電気軌道や玉川電気鉄道などの民営鉄道も大きな役割を果たしていたようです。
玉川電気鉄道は二子玉川付近やその北方の砧付近に砂利採取場を持ち、明治末期から次第にその輸送量を増やしていきました。国鉄渋谷駅の西側に砂利の積卸場がありまして、ここから東京市内への砂利供給を行っていました。しかし、第1次大戦後、砂利の需要の増加とともに、直接に東京市内に輸送ができるよう、1067ミリであった軌道間を東京市電と共通する1372ミリに改めまして、市電路線網への貨車の直通運転を可能にしました。
京王電気軌道は調布駅南方の多摩川原に採掘場を獲得しまして、1916(大正5)年に多摩川支線を開通させ、砂利の輸送を増やしていきました。そして、新宿に砂利積下ろし場を設けまして、東京市電あるいは馬車輸送で都心方面に砂利を供給しました。また、多摩川河畔の砂利を採取した跡に京王閣などの遊園設備を設け(1927年)東京市民の郊外遊楽地としました。1933年頃から調布付近における砂利採掘制限されますと、中河原駅西方に鉱区を移しました。
(5)砂利鉄道から都市郊外鉄道に
河川敷から大量の砂利を採掘することによって起こる弊害は、第2次大戦前からも各地で指摘されていましたが、基本的には砂利の採掘量が上流からの供給量を上回っていた点にありました。砂利そのものは通常数十メートルの厚さに堆積していて、量的には無尽蔵に近い状態にありますが、河床全体が少しずづ低下することによりまして、在来の用水の取水口が使えなくなったり、橋脚の基部が洗掘されまして危険な状態になったりします。
東京府(都)や神奈川県などは、各地で問題の起きるたびに局地的な砂利採掘制限を行ってきましたが、第2次大戦後はその制限を強化しまして、ついに1964(昭和39)年3月、多摩川、相模川、入間川、荒川などの砂利採掘は全面的に禁止されるようになりました。
砂利の供給地は東京、横浜に近い河川敷からの採掘が困難になると、次第に遠隔地に主力は移動しましたが、1960年ごろになると、北関東や関東山地の山腹を崩して得られる砕石に供給の主力がおかれるようになりました。同時にその輸送も鉄道からトラックに主力が移りまして、鉄道輸送に占める砂利の地位は急激に低下しました。
一方、東京郊外における住宅化の進展によって郊外の各鉄道は急激に増える沿線人口とこれにともなう通勤輸送への対応が迫られるようになりまして、かつての砂利鉄道も通勤のための鉄道へと大きく変わることになりました。
JR南武線(旧南武鉄道)、青梅線(旧青梅電気鉄道)、五日市線(旧五日市鉄道、砂利採取の支線が出ていた立川―拝島間は廃止)、あるいは西武鉄道多摩川線(旧多摩鉄道)は、砂利輸送の機能を今ではまったく失い、通勤・通学輸送を中心とする都市郊外鉄道となってしまいました。
また、砂利採掘場の跡も公園や遊園地(例えば旧京王百花苑や府中市郷土の森)あるいは競艇場・競輪場(府中の多摩川競艇場、調布の京王閣競輪場)などに再生したり、単線の線路跡がサイクリングロード兼遊歩道(下河原緑道)として整備されたところもあります。