五十間道

五十間道の由来

この「五十間道」は「甲州街道を中心に南と北に各五十間の所に設けられた、いわゆる五十間道と称され幅凡そ6尺位の裏道である」と,文政4年(1821)の上布田村の村明細書で、「一、村道」の中の「横道三筋」に対する注として、書かれたものが残っています。
 調布市郷土博物館発行の{調布の古民家}(1984)の第3章「布田五宿と生活」の中で、「街道の両側に短冊型に地割がなされており、さらに敷地の終わりには、裏道とも見られる道が甲州街道に平衡して走っている。この道を人々は{五十軒道路}とよび、隣家同志の行き来や、ちょっとした用足しに出掛けるなど、日常の生活の中でよく使われてきた道背ある」と書かれています。{五十軒}は「五十間」の誤りでありますが、近所の行き来を「隣家同士」とまで言ってしまってはあまりにも遠回りになってしまって実態に合わないのではないかと思われまして、「ちょっとした用足し」でも、街道の同じ側に限られるでありましょう。
 また、{調布市史 民族編}はその説明として、「地元の人々の意識の上では甲州街道は公道であってそう気軽に使える道はなかった」と書いているが、果たしてそうであっただろうか。宿が混雑するときでも小さな子供をつれてでも、どんな格好をしていても気にすることなく行ける裏道の便利性から、また地続きに耕地や雑木林を持たない人の必要性から良く使われたに過ぎないと思われます。

布田五宿の屋敷割との関係

上記のようなことを考えると、この道が布田五宿の屋敷割に関係があるのは確かであります。
近世初期に新たに設定された甲州街道に布田五宿を設けるに当たり、計画的な屋敷割が行われましたが、それは、よその多くの宿場や計画的新田集落と同様に、できるだけ街道に直角に地割することを原則としたので、つぎは、街道沿いに間口を取り奥行きの長い短冊形としたことにあります。
 この実体については、寛永12年(1635)の{上布田村屋敷検地帳}(「調布の近世資料上」1987)によると、当時は間口11間から13間・奥行きはすべて50間であったことが分かります。そのほかの5村では屋敷の検地帳が残っていませんので判明しませんが、上・下石原宿では12間間口を「二軒屋敷」と言い、18間間口の家もあったというから、6間を単位とする間口だったと推察されます。奥行きはほかでも50間内外だったらしく、そこに屋敷地の最奥を「50間尻」という呼び名が生まれたとも言います。
 屋敷地の先は耕作地や雑木林でありますが、耕作などに行くのに屋敷の裏に出ても、地続きに畑がない場合は他家のはたの畦道などを利用することになりますから、横道があると便利です。このような必要性から、短冊片屋敷割の村落の屋敷尻にはばの広さや狭さはともかく、このような道ができたのではないかと考えられます。
 ただ、ここでは屋敷の奥行きがほぼ五十間とそろえられたので「五十間尻」が生まれ、それを連ねた横道が1間内外の幅を持って作られ、「五十間尻の道」といわれたのが、「五十軒道」になったのでしょう。
 ただ、五宿のうちでも、現在の国領町一丁目の東部で甲州街道が屈折するので、その辺から東は街道に直角に短冊型屋敷割ができないので、国領宿には全域にわたって五十間道は認められません。したがってこの道の東限は現在の布田二丁目限りで布田駅西側の道までで、一方の西限は旧上石原宿の範囲で。現在の上石原一丁目の飛田給一丁目境までです。