井上 光晴(いのうえ みつはる)

<作家紹介>

 大岡昇平らと共に戦後文学の旗手とよばれ、埴谷雄高さんや瀬戸内寂聴さんらと親交のあった、多摩ならびに調布市とも関わりの深い小説家です。長女の井上荒野さんは、やはり小説家として活躍しています(注)。
 井上光晴さんは1926(大正15)年福岡県久留米市生まれ。佐世保、長崎県崎戸町などに暮らし、高等小学校を中退後、種々の検定試験に合格、崎戸の炭鉱技術者養成所で数学を教えました。
 1946(昭和21)年、日本共産党に入党し、九州評論者の創立に参加。詩集や評論を書きはじめ、大西巨人や谷川雁らと出会いました。 1950(昭和25)年、党の細胞活動の内情を描いた「書かれざる一章」を「新日本文学」に発表。1953年、日本共産党離党。
 1956(昭和31)年、池田郁子さんと結婚して上京し、中野区沼袋、野方、小金井市に住みました。
 1958(昭和33)年、戦争中の青年の姿を描いた「ガダルカナル戦詩集」で作家としての地位を確立。それ以来、被爆者や被差別部落の問題をとりあげた「虚構のクレーン」や、太平洋戦争中の学徒兵を描いた「死者の時」など、種々な社会的問題を主題として戦後社会を根源的に問い続けました。
 主な作品は、様々な差別を描いた「地の群れ」、朝鮮戦争をテーマにした「他国の死」、スターリン時代のソビエトがテーマの「黒い森林」、原爆投下直前の市民の生活を描いた「明日」など多数。「死者の時」は、1961(昭和36)年、演劇座で上演され、その後、木村光一の脚色で文学座も公演しました。  
 1971(昭和46)年には「地の群れ」が、熊井啓監督により映画化。「明日」は、1987(昭和62)年に監督・黒木和雄で映画化され、翌年にはテレビ化、さらに青年座で舞台化されています。
 1966(昭和41)年、次女の切羽さん誕生。世田谷区桜上水団地から調布市多摩川に転居してこられたのは、1973(昭和48)年の冬のことでした。
「群像文学賞」や「太宰賞」などの選考委員をつとめ、作品も次々に発表し、そんな旺盛な活動のかたわら、1977(昭和52)年には多摩にも「文学伝習所」を開講、厳しく情熱的な指導で後進の育成につとめました。
 1989(平成元)年7月、大腸癌と診断され、調布市内の東山病院に入院、手術。癌であることを公表し、年末から原一男監督による映画製作がはじまりました。
 1990年6月、ガンは肝臓に転移。闘病生活をしながらの精力的な活動の様子は、NHKテレビで4回にわたり放映されています。
 最後の仕事は、1992(平成4)年4月、部落解放文学賞応募作品選評の夫人への口述筆記でした。誕生日を東山病院で迎えたあと、5月30日死去。享年66歳。埴谷雄高が葬儀委員長をつとめました。
 没後、短編集「病む猫ムシ」「自由をわれらに」、短編集「ぐみの木にぐみの花咲く」が刊行されました。
 1994(平成6)年、晩年の5年間を追った原一男監督によるドキュメンタリー映画「全身小説家」が完成。多くの人々の感動を呼びました。

<主な著書>

「地の群れ」
「虚構のクレーン」
「死者の時」(太平洋戦争中の学徒兵が主題)
「他国の死」(朝鮮戦争が主題)
「荒廃の夏」(朝鮮戦争が主題)
「黒い森林」(スターリン時代のソビエトが主題)
「階級」(九州を舞台にして炭鉱閉山問題が主題)
「胸の木槌にしたがえ」(九州を舞台にして炭鉱閉山問題が主題)
「眼の皮膚」(日常生活に潜む荒廃が主題)
「明日」(原爆投下直前の市民の生活が主題)
「丸山蘭水楼の遊女たち」(幕末の長崎が主題)

(注)井上 荒野(いのうえ あれの)

 1961(昭和36)年,東京都生まれ。調布市立第三中学校。玉川学園。成蹊大学文学部卒。
1989年、「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞受賞

主な著書
「ひどい感じ 父・井上光晴」 「グラジオラスの耳」 「もう切るわ」 「だりや荘」 など


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基本情報

問い合わせ: 調布市立中央図書館 地域情報化担当
042-441-6181