市川銕琅 (いちかわ てつろう)

ちょうふ人間模様~市川銕琅~

<目次>
鉄筆・木彫の名工~市川銕琅
『銕琅の六十年』という本
銕琅の作品~調布・国領の頃
調布市郷土博物館
市川銕琅の粉本(スケッチ帳)
市川銕琅の作品~奈良泉佐野・飛火野の頃
師・加納銕哉(てっさい)とその作品
最勝精舎(さいしょうしょうじゃ)~銕哉・銕琅の奈良の草舎
市川銕琅の人となり~その頃の調布・国領
市川銕琅の名前と雅号
市川銕琅の家族一統~主に調布・国領の場合(1)
市川銕琅の家族一統~主に調布・国領の場合(2)
市川銕琅の調布の恩師・友(1)
市川銕琅の調布の恩師・友(2)
市川銕琅の交友関係~奈良を中心とする
息子・市川悦也氏(1)
息子・市川悦也氏(2)
★作品リスト

鉄筆・木彫の名工~市川銕琅(いちかわてつろう)

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市川銕琅 1901年(明治34)~1987年(昭和62)

この写真を見て和みませんか?
温厚、実直、情熱、野趣etc.
調布に生を受けた
 鉄筆・木彫の名工 市川 銕琅 その人です。
 ここに紹介したような作品を作りました。
故 東大寺長老の清水公照師をして、「天下の至宝」と言わしめました。
また、職人肌の名工とも讃えられています。
良き土壌・風土は、良き人々を生み育てるといいます。
銕琅を知り、調布との繋がりを探って見ましょう。

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『銕琅の六十年』という本

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『銕琅の六十年』の表題紙 題字:東大寺長老・清水公照師

★この本の表紙は「赤い布製」、銕琅の彫技歴が60年、つまり還暦と言うことで、赤が選ばれました。 
★縦・横ともに二十五・五センチの四角形(いわゆる“枡形本”)です。
それゆえ、調布市役所の行政資料室の書架からは少し出っぱっていました。それが、この本との出遇いでした。
あなたも、この本との「一期一会」を味わいませんか。
<本 の 内 容>
市川銕琅が、雅号を銕琅と名乗って以来60年を記念しての回顧展開催を機に、出版されたものです。
 作品は55点。「天平雛」「鏡獅子」などの木彫のほか、鉄筆の茶托、なつめ,扇面の「七福神図」などと多岐にわたります。
 その他、東大寺長老・清水公照師と堺女子短期大学教授・浅井充晶が一文をよせています。
 巻末の「銕琅の記」は、殆どがその息子・市川悦也氏による銕琅の聞き書きであり、その語り口は銕琅の人柄を偲ばせるものです。
『銕琅の六十年』 市川銕琅 1986年
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銕琅の作品   ~調布・国領の頃~

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初期の作品「七福神図扁額」(田邊光子さん蔵)

明治末期の国領辺りの子供たちの遊びは・・・・・・・・・?
 多摩川での釣り - てづかみでも獲る。
 道々での虫取り - 蝉や蟻を郵便の紙に描く。
小学6年頃、“土ひねり”が流行りました。虎蔵少年(後の銕琅)は、教科書の西郷や東郷元帥をまねて土偶を造ったりしました。
 その絵や土偶を見守っていた人がいました。父の鍼灸治療に通っていた石井寅三氏です。その人は、“自分の遠縁の彫刻師・加納銕哉(かのうてっさい)にあずけたら、ひょっとして・・・・”と思ったのです。こうして虎蔵少年は彫刻の道へ。
※石井寅三氏は、当時の「週刊多摩新聞」紙上に見る土木請負業であり、狛江村の“北多摩郡会議員”で“名士”であった石井寅三と同じ人物と見られます。
3人兄弟は、「小倉百人一首かるた」を作りました。特技を活かして、書が好きな長兄は和歌を、器用な次兄は色紙でかるたを、そして絵の好きな虎蔵少年は殿さま・姫さま・坊主などの絵を。 
出来上がったかるたは、母親の手作りの黒木綿の巾着風の袋に入れられました。
『明治末期週刊多摩新聞全集-調布史談会復刻』日本地図協会 1970年
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調 布 市 郷 土 博 物 館

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調布市郷土博物館は京王線の京王多摩川駅から徒歩約5分。(中央図書館からは徒歩20分ほど)
庭には東屋があり、季節ごとの自然も美しい。
所在地 調布市小島町3-26-2
 電話 0424-81-7656
 開館時間 月曜日・祝日を除く9時~4時
市川銕琅関係の収蔵品
~郷土博物館 調布市文化会館たづくり などでときおり公開 ~
   木彫 50点
   その他の資料 200点
   (虫などのスケッチ帳「粉本」、アトリエの「最勝精舎」の写真など)
 調布市郷土博物館と息子・市川悦也氏の努力で、その収集は日本で一番です!

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市川銕琅の粉本(スケッチ帳)  ~調布市郷土博物館所蔵~

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市川銕琅作:粉本 調布市郷土博物館蔵

 銕琅は加納銕哉に入門して住み込み、10代中ばで掃除や使い走りなど・・・・・・・。
徒弟としては、徹底的に写生することを教示されました。そのスケッチを集め一冊としたのが、粉本です。
粉本の綴じ糸はほつれかかり、和紙には手ズレのあとや染みもあり、銕琅が何度もひもといた様子が窺えます。
調布の頃・・・・・・・・・・・「むさしの 上 」「むさしの 下」
奈良の頃・・・・・・・・・・・「とびひの 上 」「とびひの 下」
 閲覧には要許可。
粉本には、たくさんの虫や魚が描かれています。
その登場するものは・・・・・・・・。
 蛙、いもり、バッタ、蛇、くわがた、火取虫、かげろう、なめくじ、やもり、熊蜂、馬追虫、 とんぼ、いなご、蝶、やどり蟹、鮎、鯉、etc.•・・・・・・
和紙に書かれた筆遣いのすばらしさは
・ ずっと親しんできた虫たちへの愛情
・ じっと見つめる目の力
・ 下書きもなしに、一気に描く筆の勢い
絵ごころという才能は、調布の野や川で育んだ五感の確かさが開花させたのではないでしょうか。
※ 製本も自分の手作り。和綴じの糸のかけ方は分かりますか?
図書館で調べて試してみるのも一興。
  

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市川銕琅の作品 ~奈良泉佐野・飛火野の頃~

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市川銕琅作:菊慈童 調布市郷土博物館蔵

 師・加納銕哉に徹底的な写生(粉本「とびひ野」参照)と彫技を学びました。その急逝で、鉄筆に基盤を置き、さらに彫芸は奈良人形や嵯峨人形の影響で、より古典的・華麗さを加えました。
銕琅は、調布尋常小学校を卒業して入門して後、東京市立下谷区第2実業補習夜学校を卒業しています。(「夜学校」とは今の定時制中学です。)
その後も努力を重ねての教養。 その基盤には、師より与えられた漢詩、書、茶などの素養があるのでしょう。
 25歳の時、初めて作品頒布会を開いて以来、その作品への後援者によって道は開けて行き、後「銕琅会」によるなど広い愛好者の支持を受けました。
 ※ 最初(25歳)の作品頒布会での工賃は慎ましく、師の五分の一から十分の一というものに決め、約20年間そのままに。多くは注文品であったため、骨董市場には出回っていませんでしたが、高く評価されていました。
 現在は代替わりで、相続処分が多くその結果骨董市場に多数出回り始めましたが、衰えない人気のためか値崩れはしていません。
※大展覧会には出品せず、もっぱら注文品。その愛好者には、皇族の名も連なっています。また、国領時代の同級生も持っていますが、行方は追えません。
銕琅の作品の作業の流れ。
銕琅によって木や石膏で彫像の原型が造られる。原型は工房で弟子たちも協力し、作品になる。彩色は、三女・和子さんの夫・本間秀夫氏の手により、銕琅晩年には和子さんの手も加わりました。(調布市郷土博物館の十時学芸員の話から)
銕琅は、『銕琅の六十年』の付記にこう述べています。
「良き協力者にめぐまれた六十年でもあったが、時代のいたずらなのか、後継者は、よう育てられんかった。この本は、大和、常七、本間君たちに、おくる。」

 ※ 藤井常七氏 : 銕琅の妻の弟、戦死。 本間秀夫氏:三女・和子の夫。病気で急逝。いずれも後継者として期待されていました。
 銕琅の作品の芸術的価値については、簡単には云々できません。ただ、その芸術と工芸界への活動に対し、1979(昭和54)年旭日章勲七等青色桐葉章を受賞していること(受賞については、銕琅は表沙汰にすることを喜ばなかったのです。)からも伺えます。

※『銕琅の六十年』 掲載の作品を見ると・・・。(素人考えですが)
○ 「観音像」、「桃太郎」、「七福神」、「熊野像」など何年か経って再度試みています。注文によってということもあり得るが、作品それぞれへの思いと工夫が見られます。
○ 故事による「武内大臣」、「田道間守」、「売茶翁」、「白蔵王」などは、その奥のドラマを知りたくなります。
○ 銕琅晩年には、「寿老人」「翁」「福の神」などを彫っていることは、注目に値します。自身耳を患い外界との音を絶って(銕琅は、1935年(昭和10)に紫斑病を患い、その上仕事で無理をしたため耳が不自由になりました。)より彫刻に集中されたということです。至難の中に彫られたものには、不思議な笑みがあります。銕琅の“自画像”とも云えると思えます。

※菊慈童=周の穆王の侍童の名。南陽郡に流されたがその地で菊の露(近くに菊水と呼ばれる川があり、崖上にある菊の露がこの川にしたたり落ちてその水きわめて甘くその辺りの人を長命にする。)を飲んで、不老不死になったという。 

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加納銕哉( かのう てっさい:市川銕琅の師匠)とその作品

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加納銕哉作:鍾馗像 岐阜市歴史博物館蔵

彫刻・絵画、特に独特の鉄筆の世界を築く。岡倉天心と古美術の調査をし、また東京美術大学(現・東京芸術大学)の準備教授としてその創設に加わりましたが発足前に、若い友人竹内久一に席を譲り、野に下ります。
 伝統的・古典的表現を、置物から煎茶具など日常的なものに注ぎました。彫刻で鉄筆を重んじたのは、アイデンティティでした。
「写真不写形」=(真実を写して、形を写さず)というのが、銕哉の造形に関する理念でした。
 奈良の地に、アトリエとして草庵「最勝精舎」を創設。

※奈良で親交のあった志賀直哉曰く「職人気質の名工」。気風闊達、野の人でもありました。天長節(天皇誕生日)には、必ず赤飯を作り祝うことを忘れなかった銕哉でした。一方悪戯半分に自他を問わず贋作を作るという茶目っ気もありました。そのうち、“贋銕哉”も出現するはめになることになり、弟子の銕琅を悩ませるくらいでした。
※銕哉をモデルにしたといわれる「蘭斎没後」という短編は知られています。
      「蘭斎没後」 志賀直哉
(『志賀直哉全集第5巻』岩波書店 1999収載)
     『加納鉄哉展―知られざる名工』(付:参考文献)
岐阜市歴史博物館 2003年

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最 勝 精 舎(さいしょうしょうじゃ)  ~銕哉・銕琅の奈良の草舎~

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「最勝精舎」木額:市川悦也氏蔵

加納銕哉は、1921年(大正10)に奈良の高畑に「最勝精舎」を建てて、本拠地としました。
この工房兼住居は2度の移転を止むなくし、銕琅によって受け継がれましたが、銕琅の死後はその保存は断念せざるを得なかったのです。
銕琅の息子・悦也氏によって、解体されました。調布市郷土博物館も移転の相談に応じましたが、財政事情から諦めざるを得ませんでした。

 ※高山寺の有名な「鳥獣戯画」を銕哉は模写していますが、直筆模写である障子・襖絵などは保存されています。2005年(平成17)秋に黄檗宗系の禅宗のお寺・真聖禅寺(銕哉の遠縁)に引き取られることになりました。
この模写については、「鳥獣戯画」のある高山寺に行っては拝観し、アトリエで描いたという銕哉に対し、周りの人はその場で模写したのであろうとの声もあります。
この優れた銕哉の「鳥獣戯画」の襖でしたが、最勝精舎の部屋にいつも置かれていました。訪問した銕琅の姪である田辺光子さんは、その何気ない日常の生活に驚きをもらしておられました。

 ※調布市郷土博物館のある学芸員の言葉:「曼珠沙華とて、その地にあって花の美しさもある。最勝精舎とて、奈良の地にあって、庭にもそこの草花があってこその”最勝精舎“といえるかも知れない。」

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市川銕琅の人となり ~その頃の調布・国領

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写真提供:調布市郷土博物館

1928年(大正3年)頃の調布駅です。
写真には右端にトイレの手洗い用だと思われる手桶があります。単線なのでポイントで切りかえていました。

大正・昭和初期の頃の調布・国領の様子は、「国領のむかしむかし」(田辺公子著)によって、よく描かれています。その風土が銕琅の人柄を作り出したといえます。
その本の中のキーワードを拾って見ましょう。
 家  : 珍しい店には、機屋、繭仲買、馬車屋・・・・・・
 田畑 : 肥料には、下肥、灰、馬糞・・・・・
 川  : 河原には、まむし、月見草、ほたる・・・・
 交通 : 交通機関には、乗合馬車、人力車、京王電鉄(笹塚~調布間片道21銭)
 学校 : 小学校には、石原・布田・国領小学校→調布尋常高等小学校・・・(お寺が仮校舎)
 風俗 : 明かりは、ランプ→電灯、養蚕、茶摘み、機織り・・・・・・
      (夜明方、馬車に野菜などを積み都心へ。帰りに下肥を肥桶に入れ帰ってきました。)

※このキーワードを裏打ちするかのような資料が、当時の「週刊多摩新聞」の明治43年の「企業広告」に見ることができます。
 屠場、旅人宿、貸本、仕出し、蚕種製造販売、養魚場、種子苗木、米穀、葡萄酒、青物乾物、灸、医院・・・・・etc.  
写真は、『調布今昔写真集』調布市教育委員会 1974年 より

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市川銕琅の名前と雅号

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調布市郷土博物館蔵「菊慈童」箱書 

<出生と名前>
  『銕琅の六十年』の「銕琅の記」冒頭の文を引用してみます。

「明治三十四年四月六日
  市川金蔵 なか 三男として東京 調布 国領町に生まれる。
本名
虎蔵。家族の間では、寅蔵と名付けたつもりで、成人する。
役場の手違いが、あったようだ。そんな訳で、今でも役所等で、虎蔵(こぞう)と、書くことに、ためらいを覚える。」
             
※ 当時の国領町の正式名称は、東京府北多摩郡調布町国領です。役場が名前を間違え、また、それを知らなかったとは、のんびりとした時代でした。
※ その頃の命名 ― 「寅」とか「虎」とか
明治45年(大正1年)より明治安田生命株式会社が“その年の命名ランキングを”調査発表しています。現在残されている資料は、ランキング10位までで、大正初めの辰年は、「辰雄」「辰男」が散見されます。
明治末年に動物の「虎」とか十二支の「寅」とかが命名に使われたかどうか不明ですけれど、その“走り”だったかもしれません。「名前の研究」(星田晋五 近代文芸社 2002年)によると、十二支の獣物のうち「虎」と「猪」は男子に“勇猛強健”を願望して命名したと言われれています。  

<雅  号> 
1918年(大正7) 銕良
 銕哉長男・和弘とあこがれの奈良に赴きました。元弟子の渡辺銕香より“奈良は彫刻の宝庫”と聞いていたので、慌てて手ぶらで行きました。「彫刻師が小刀を忘れる等、武士が魂を失ったようなものだと大目玉・・・・・」銕哉より叱られたという逸話も残っています。この時、銕良の雅号を銕哉よりもらいます。 ( 『銕琅の六十年』より引用 )

1923年(大正12) 銕琅
「師銕哉と共に出かけた広島で師に代わり、彫った銕筆の技量を認められ、奥田抱生氏(銕哉の友人で、漢学の先生、銕哉作品の漢詩等の校正、助言をしていた人)の薦めによって銕良改め銕琅を名乗る。」(『銕琅の六十年』より引用)

[注] 銕琅の漢字の意味
  ★銕(テツ)=くろがね。鐵の古字  (注)鐵=当用漢字は鉄
★琅(ラウ)
1. (1)琅玕は玉に似た石。又玉の名。 (ア)珠に似て美しい石 (イ)青色の珊瑚
(2)琅鐺は、長いくさり。鋃に通ず。
(3)門のかなわ。門鐶。鐶に通ず。
(4)金石の音のさま。琅琅の(1)を見よ。
(5)潔白な喩。(以下略)
2.琅湯は、廣々するさま。浪に通ず。(注)廣々=当用漢字は「広々」     『大漢和辞典』 (諸橋轍次著 大修館書店 1989)より抄録。

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市川銕琅の家族一統 ~主に調布・国領の場合(1)~

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田邊光子さん手書きの地図

  『国領のむかしむかし』の巻末には、当時の国領の地図が掲載されています。(塩沢信一郎氏作)
  下国領方面の地図としては『風雪』の中で荻本純一氏が書かれています。これらを踏まえて、今回、上国領・北浦・国領駅付近の地図を、田邊光子さんが記憶を辿り、思い出しながら書いてくださいました。
 
※昭和の7~8年頃までは、明治・大正の時代を色濃く残していましたが、これより昭和の時代へと進んだと光子さんは言われます。
 市川銕琅の家族一統は、殆どが調布に住んでいます。銕琅自身も奈良に移ってからも、母親のなかへの孝心からもあり、余裕のない徒弟の時代から、頻々国領にへ足を運んでいます。
 師銕哉は、晩年の弟子である銕琅を奈良にとどめ置くべく、奈良出身のなつとの結婚をうながしたという話もありますが、“それだけ、銕琅にとって、調布・国領への引力があった”と言っては、あながち過言ではないようです。
妻・なつは、教養もあり、後年奈良女高師に生け花(大和未生流)を教えに行ったりしています。それが縁でか先生の夫人たちによる“銕琅の後援会”が発足しています。
 長男・悦也氏は、奈良に生まれ育ちました。後年神戸に自宅とアトリエを持ちましたが、阪神淡路大震災の際、アトリエは焼失。その時悦也氏はいち早く自身が率先して焼跡を整理しアトリエを再建しました。その後、自宅を東京の世田谷に移しました。
 また、父銕琅の死後、その関連の粉本などの資料を調布郷土博物館に託しています。
 そもそも、祖父・竹松は神奈川県新城(現川崎市高津区)の豪農でした。その子の金蔵は、若くして父の急逝もあって、健康が大事なこととして、鍼術師に進みました。
 妻なかは、石原家から新城の豪農市川家の長男竹松に嫁ぎ、男児二人をもうけましたが、金蔵は体が頑健でなかったこともあり、数年を経て妻なかの実家(調布下布田下山谷の大百姓)の近くである国領に居を構え、金蔵は鍼灸師になりました。
 長男、次男共父と同じ道を進みました。三男の虎蔵が銕哉への入門の前、毎日叔父の石原家に通い百姓仕事で体を鍛え、とにかく体力をつけたというのもむべなる哉と言えましょう。

 
※ 祖父の豪農を表す逸話
 小作農の作った米をさばくのに、当時は銘仙(織物)などで隆盛であった八王子に荷馬車で運ぶのが常でした。米俵を積んだ荷車が列をなして街道を行く有様は偉容でしたので、土地の人々は、“陸船”(おかふね)と呼んだと言います。(当時の運送手段は水路の船でありました)
 母のなかは、国領に所帯を持ってお歯黒をするようになってから(昭和7年頃まで)、繭から糸
をとり(糸ひき)機織りを近所の娘さんたちに教えていました。なかは「“人間は立って半畳寝て
一畳あれば足りる“として、欲をかかない」と言うのが常でした。婚家先の小姑や甥、実家の弟妹や甥・姪達もよく遊びにみえ、また相談事に来て居りました。 
 現在は、銕琅の子、孫、曾孫の時代です。
『国領のむかしむかし』 田邊公子著 塩沢信一郎(地図) 1962年
『風雪-調布に生きて…明治・大正・昭和-』荻本純一著 荻本貞臣 1986年

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市川銕琅の家族一統 ~主に調布・国領の場合(2)~

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市川銕琅作:法隆寺舊蔵伎楽呉女面額 (田邊光子氏蔵)

<姪・田邊光子さんの一家>
特に、次男・幸一の娘・光子さんは歯科医院を営み、その夫と娘2人も歯科医という歯科医師一家です。 光子さんは、若い頃、歯牙の構造の顕微鏡写真を見て、その神秘さに感動。先々を想う祖母や父の反対を押して、当時女子としては珍しい歯科医への道へ。更に鍼治療を信奉する祖母、両親の強いすすめで夜学で鍼術師の資格も取得。

 住まいの方の扉を開けて一歩入ると、そこは恰も“ミニ銕琅美術館”。銕琅初期の「七福神の額」をはじめ、過去現在にいたる銕琅との交流を偲べる作品が並んでいます。
この家には、銕琅を迎える母、家族、同級生の集いがあったのです。後年、長女公子さんが小学6年生の時、宿題で国領のことを調べました。それは、この土地に生まれ育った母親からの聞き書きで母子の共同作品と公子さんは言っています。
※その作品は製本されて、調布市立図書館の郷土資料の棚に並んでいます。
※“聞き書き”という読む人になじみ易い文体は、くしくも『銕琅の六十年』の「銕琅の記」にも“悦也氏聞き書き”という形にもあるのです・
※ 光子さんの夫・明氏は叔父銕琅の人となり、仕事ぶりを尊敬しその作品も大好きでした。囲碁が趣味でしたが、銕琅が同家を訪れる時は、碁盤や優勝カップは片づけました。彫刻一筋に打ち込んでいる銕琅をおもんばかってのことでした。

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市川銕琅の調布の恩師・友(1)

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市川銕琅30代の頃

<小学校>
 虎蔵少年(後銕琅)は、1909年(明治42)に調布尋常高等小学校に入学しました。当時の調布の人口は少なく、従って小学生の人数も少なかったのです。(「高等小学校」とは、小学6年の上にもう2年間をプラスされる制度です。)
※ 姪の光子さんが入学した1932年(昭和7)の小学校の場合= 入学当時は、男女混合の2クラス。小3になって男女別2クラス。小学校から大分遠かった飛田給には分教場から本校への編入がありました。後小5になると男組1,女組1,それに男女混合1の3クラスでした。各クラス60人でした。高等科に進むと、男女2クラスで各50人位でした。

<恩師>
 銕琅は奈良に行ってからも“虎蔵少年”当時の恩師を度々訪ねています。当時は、クラスの人数も少なく教諭の赴任期間は長かったので交流は深かったのでしょう。
約20年後に同校に入学した姪の光子さんは、恩師から虎蔵少年の思い出話を聞いたり、他の担任の先生にも街で声をかけられたりしたなつかしい体験を持っています。

<友人>
 同級生は人数が少なかったせいもあり親しく、近所の友人も年令もさまざまに遊びました。囲
りは畑・田・多摩川・小川ばかりで、外遊びは当然。旧甲州街道での羽根つきとて安全でありました。太鼓の音も聞こえて来ました。今の国領神社の藤の木(「調布八景」の千年の藤)は、まだ今のようなきちんとした棚がなくて、登ったりした男の子たちもおりました。
※ “国領はやし”=明治の中頃、竹内林之助という商人が東京下町の祭ばやしに感動して、若衆に教えました。やがて本格的に神楽師の内海車次を千歳村から招いて習いました。これが今の“国領はやし”の始まりのようです。虎蔵の兄幸一も“国領はやし連”に入りました。若き日の虎蔵はお面を彫って寄贈しています。

※ 甲州街道(旧)とて自動車の通りは珍しかったのです。府中の競馬場が出来て、競馬が開催される日は子供たちは2階のある家に集まり、「今通った!」と自動車の数を数えて興じたと言うくらいでした。


『調布の祭ばやし』(調布市郷土芸能祭ばやし保存会編 調布市教育委員会 1987年)
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市川銕琅の調布の恩師・友(2)

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市川銕琅作:猛虎(調布市郷土博物館蔵)

<竹馬の友> 
帰郷するたびに殆ど毎回の様にお尋ねしていた小学校時代の友人も何人かおられました。そのうちのお二人を紹介しましょう。
● 荻本義男氏は国領駅前の砂利店のご主人です。奈良から帰ってきた虎蔵が国領駅に降り立つと、店から目ざとく見つけて、「トラちゃん、帰ってきただろう?」と訪れて昔話に花を咲かせました。「幼い時、毎朝虎蔵と仲良く手をつないで小学校に通った友達で(母なかの話)後々まで、ずっと、ちょくちょく市川宅を訪れ、賑やかに諸々の話をして行かれました。大変恰幅の良い話し好きなお方で、後年虎蔵の父金蔵の法事などにも出席して居られます。」とは光子さんの言。(また、下国領の地図を書かれた荻本純一氏の親戚です。)
● 名古屋昌作氏は市川家の隣家で、父親は繭の仲買人でした。虎蔵とは年も離れ若かったのですが昔から遊びに来ており、光子さんが幼い頃もよく訪れ、歌舞伎役者の声色を真似たり、落語をきかせたり、なかなかの芸達者で話し上手でした。家が焼失してから国領駅近くに移り、化粧品店等色々の商売を経て後に蕎麦屋を開業しました。
光子さんが歯科医師になり結婚し歯科医院を開設してからも、ずっと繁盛して居りました。後刻、この店を閉じ、井の頭公園にある「日本無線」の寮を任され、悠々自適の生活を過ごしました。大変世話好きな方で、当時八尾の住職になる前の今東光師の面倒を見たというのが自慢の人物でした。
 ※若い頃は、調布の撮影所に出入りして、原節子の付き人もしたとか、ちょっとした美男子でした。
 ※銕琅の長男・悦也氏も、東京芸術大学の2年生の時より日本無線寮近くに住み、甘えさせて頂いた“恩人”と述懐しています。

 

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市川銕琅の交友関係 ~奈良を中心とする~

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清水公照作:泥仏 (『清水公照八十年―ひらひら』 赤井達郎編 淡交社 1994年

 銕琅の囲りには、師銕哉の最勝精舎を中心にその交友の基は出来ました。業績によって更に広がりその交友関係は“伽羅(きゃら)、星のごとく”という感じでした。
  志賀直哉、清水公照、奥田抱生・・・・・・・・・etc. 
生来、寡黙で地見目の人であったのに、秘む魅力に人を吸いつけるものがあったのでしょうか。
 最初の後援者となった矢野慶太郎氏(商品取引業)は、大阪工芸展の受賞作品を見て「銕哉の門人に間違いない」と後援を申し出たのです。(以下この章のカギ括弧は『銕琅の六十年』より引用)
 
※銕琅が矢野氏のところに、古面の根付けを持っていくと、矢野氏は「日本全国の社寺の宝物全部を作ってみよ。百個になっても二百個になっても・・・・」と太っ腹な言われようでした。
 <清水公照師>
先師公俊(東大寺第百九十九世別当)に引き継ぎ、銕琅の理解者であった公照師には、銕琅の作品が手元に残っています。その中のいくつかを・・・・・
呉女の面を彫った香盒 : 公俊師の霊前に銕琅が供えたもの
 「私の目に銕琅のこころが深く、彫り込まれている。爾来、脇机に置きつづけている。」と公照師は『銕琅の六十年』の中で述べています。
線香筒と煎杯:銕琅が銕琅六十年の機会に開催した回顧展の終了後、清水公照師に拝借した作品の返却の際に贈った物。
 
※ この作品をお届けに行った悦也氏によれば、その作品には、鉄筆で蟻10匹が彫り上げてありました。“蟻10匹”つまり「ありがとう」ということで「生真面目なユーモアを持ち合わせた人でした。」とは悦也氏の述懐。
泥仏:誕生仏 :公照師自身の作
清水公照師は、書画と同じほど、陶芸を残されました。陶芸の殆どが“泥仏”で、数知れません。
※ 泥仏は、まるで“銕琅”が虎蔵少年だった頃の“土ひねり”その心に通づるものがある・・・・とは勝手な思いでしょうか。
東京芸術大学学長・平山郁夫氏は、『清水公照八十年』の本の冒頭で「清水公照の書や、絵や陶器は、まるで清水先生と対談しているように、先生から語りかけてくるようです。淡々と、或いはぼそぼそと、微笑されながら心に入ってくるようです。」と書いています。
『清水公照八十年―ひらひら』 赤井達郎編 淡交社 1994年

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息子・市川悦也氏(1)

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市川悦也作:ニルマル・ヒルダイ (マザーテレサの「清らかな心の家」の意味)   

<誕生>
 銕琅にとって3女が生まれた後、12年目にして第4子に男の子が生まれたのです。その喜びはひとしおのものでした。悦也氏は奈良の家で生まれ育ちました。待ち望んでいた男子出生なので、その知らせはなかを始め親戚一同大喜びでした。
 命名は、父・銕琅の気持ちそのままに「市川悦也」としました。“悦也=悦びなり”ということです。
※命名は、親の子への期待を込めて言葉を選ぶのが普通ですが親の気持ちをすなおに名前によみ込んだのは、珍しいようです。

<彫刻への道> 
 市川悦也は奈良で高等学校までを修了。東京芸術大学で彫刻科の道を進みます。銕琅は、息子悦也氏の高等教育を受けることに労を惜しまなかったのです。芸術家との交流の雰囲気の中に自然に浸る機会もありました。例えば、悦也氏は彫刻家・平櫛田中の書生となることも叶いました。
 ※悦也氏は平櫛田中に伴われ、ある日東京芸大の門をくぐりました。構内には、創始者・岡倉天心の彫像がありましたが、田中は、「せんせい、おはようございます」と大声で挨拶の礼をされた。実は、その像は平櫛田中自身の制作であったわけですが、それとは別に師天心への敬愛の心が勝っていたのです。それを目前にして、悦也氏の心には深いものが残りました。
 同大大学院を修了。母校ほか各大学で教える傍ら、新制作協会に属し実作に励んでいます。個展、企画展など主に神戸など、関西で活躍。特筆すべき事は、父・銕琅の生前に「父子展」を大阪と東京の三越で2度開催しています。
 また、国際的にもイタリアの「ダンテ国際彫刻ビエンナーレ」に2度にわたり出品。金賞などの評価を得ています。現在、宝塚造形芸術大学大学院教授。日本美術家連盟会員、地中海学会員。
 ※自称“彫刻オタク”の悦也氏の彫刻論はそのホームページに展開されています。また、宝塚造形芸術大学のホームページでの学生の作品に対する“寸評”は好評を得ています。
なぜ、銕琅の鉄筆の道や、床の間の置物などの日常身の回りの物の木彫りの道に進まなかったか?悦也氏自身の“平面でなく茶托のような曲面に、しかもフリーハンドで鉄彫の技の難しさ”との感慨にあるかも知れませんが。彫刻そして木の素材へのこだわりは受け継いでいます。
 ※悦也氏のホームページにもあるように「日本人は本質的に“彫刻空間”がなじまない」ともいえます。 現在に至っては、住居そのものが床の間などの存在はなくなり、小さいものでも飾る空間がなくなってきていることは確かなのです。


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息子・市川悦也氏(2)

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市川悦也作:残焔

<人となり>
悦也氏の人となりは、銕琅の芸歴60年の展覧会を機に、単なる図録でない『銕琅の六十年』を出版することに、東奔西走したということに尽きます。その中の「銕琅の記」は、(銕琅自身も時には記述することはありましたが)悦也氏が父の聞き書きをしました。そこには、父と子の対話がありました。悦也氏自身「それまではゆっくり話をする機会もなかったが、父と静かな心の通う時間がもてた」といっておられます。
その満足感が、間もなく半年を経ずして訪れた父・銕琅の死、さらに襲った関西・淡路大震災という挫折にかかわらず、“最勝精舎”やその他の資料の保存に尽くし、また自身の彫刻への挑戦のエネルギーになったのかも知れません。
※震災で神戸のアトリエを失いました。 “生き残った人が感ずるという罪の意識”もあり、居宅は残ったものの、諸般の事情もあって、結局は家庭のある居宅を東京世田谷に移しました。そして、悦也氏は神戸に単身赴任です。
「お父さまをお好きですか?」という問いに、悦也氏はにっこりと笑みを浮かべられていました。この笑みが市川悦也氏の人柄のすべてを語っていると思えます。

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基本情報

参考文献 『謡曲大観 第2巻』(佐成謙太郎 明治書院 1982年)
『能・狂言事典』(西野春雄編 平凡社 1999年)
『新編稀書複製会叢書 第20巻 歌舞伎・狂言本』(中村幸彦、日野竜夫編 臨川書店 1990年)
『手づくり製本術―自装本を楽しむ』( 岩崎博著 雄鶏社 1994年)
『はじめての和装本―身近な道具で作れます-』(府川次男著 文化出版局 2003年)
『人形2-嵯峨人形・賀茂人形・衣装人形』(紫紅社編、京都書院刊 1985年)
『近代日本美術事典』(講談社 1989年)
『国宝絵巻鳥獣戯画』(岩崎出版社 1984年)
『日本の美術no.300 絵巻鳥獣戯画と鳴呼絵」(至文堂 1991年)
『大漢和辞典』(諸橋轍次著 大修館書店 1989年)
『現代芸術は難しくない』(田淵晋也著 世界思想社 2005年)
「調布市郷土博物館だより」no.32 no.34 no.40 no.52
ご協力いただいた方々 市川悦也氏        清水千深氏
田邊光子氏        鈴木敦子氏    
田邊公子氏        篠宮奈々子氏     
調布市郷土博物館   岐阜市歴史博物館
問い合わせ: 調布市立中央図書館 地域情報化担当
042-441-6181