現代に関わる人

張堂完俊住職

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谷玄昭住職(『深大寺物語』著者)とともに深大寺そばをこよなく愛しておられ、“地元特産そばの復活”を強く願ってやまないおひとり。 そのために地元の有志たちと“深大寺そばを作る会”を結成、“一味会”へと継承し今に至ります。
ここでは、深大寺の寺有地などを利用して蕎麦の栽培を行うとともに、毎年旧暦の9月13日には、十三夜の月見を兼ねた“観月会”で風情を楽しみ、12月には蕎麦好きの客、100名ほどを招いて『深大寺そばを味わう集い』を催しておられます。
 夢は、10月の“そばまつり”を発展させ、“日本全国そば祭り”とすること。 さらに、12月の『深大寺そばを味わう集い』では招待客の100名のみではなく、一般市民も含めて3000人規模でやりたい、とのこと。
“市民が総出でそばを打って楽しむ日ができれば、地域に活力がうまれ、郷土愛が育まれる。健康にも良い。”と熱く語りました。

<参考資料>
『深大寺物語-住職がつづる とっておき-』(谷玄昭著 東京 四季社)
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浅田修平さん

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松本清張氏に言われるまでもなく(『東京の旅』樋口清之共著の中に、“舶来のオソバでみんな舌つづみ-深大寺”の章あり)、江戸名所絵図に描かれた深大寺の風景の再現に向けての想いを強く持っておられるようです。
向学心旺盛で、故片倉康雄氏の技術と伝統を受け継ぐ一茶庵系のそば打ちも学びました。
“昔、深大寺周辺で食べられていたそばはおそらく対極にあるような田舎そばだったろうが、味、香り、食感、のど越しに対するこだわりを軸に原点を極めたい”との気持ちを常に持たれて活動されておられます。
 約20年前の深大寺張堂執事長との出会いを契機に、再び市内でそばを栽培しよう、との機運が高まり、昭和61年以来張堂執事長と檀家、農家の皆さんと協力して、深大寺そばの発展に活躍されています。
自身の息子さんたちが深大寺小学校に通っていたころに地元の伝統産業の授業で“そば”を取り上げ、当時の小学生4~5人がそば屋を継いでいるようです。
店内には、深大寺開創にまつわるロマンス伝説にちなんだ吉祥天女像が祀られています。

<参考資料>
『東京の旅』(松本清張著 樋口清之著 光文社)
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高橋金平さん

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深大寺そばの伝統を守り、今も深大寺周辺でそばを栽培し続けておられる 数少ない栽培農家のお1人です。
地元の蕎麦好きな人達が毎年自分たちで作ったそばを味わう「一味会」という集いがあり、そこで栽培の指導をされてきました。
毎年2月の1日をかけ、深大寺小学校の5年生を対象に畑のそばの栽培の指導を行ってこられました。
深大寺そばの伝統を、何としても後世に伝えたいと意欲満々です。

嶋田太郎さん

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嶋田家そば本店風景

お名前は“太郎”ですが、二男とのこと。 この地神代村にて育ったとのことで、かっての風景をしのばせるお話を多々伺った。

・うっそうとした森、靄と霞、墨絵のようなのどかな風景だった。
・湧き水は豊富、13個所もあって、どこを掘っても30cmぐらいで水が出てきた
・裏の池(亀島弁財天池)がもっと大きかったのでよく泳いで遊んだものだ。
・冬など氷が張って渡れた。氷が割れて親父に助けられたこともあった。
・蛙がものすごく多かった。 風呂場にまで入ってきた。
などなど、。。。

“もともと養蚕が本業、そばは深大寺だるま市や俳句会など、特別な時を除き、来客時に求められれば打って御馳走した程度であった”そうで、大きく変わったのは、“神代植物公園ができた時に、かなりの人が土地を売ってそば屋や駐車場を開業した時から”
さらなる発展に向けては、“浅草寺に習い、ほおずき市や朝顔市など夏のイベンントを行ったらどうか”、“野川の橋の架け替えに合わせた参道の整備をしては”など提案してる由。

“縁結び”や“恋物語”が知名度を上げた効果か、若いカップルの参拝が増えてきているもよう。

<参考資料>
『深大寺-開創壱千弐百五拾年記念-』(調布 深大寺)P92~
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