深大寺そばと人

深大寺そばが有名になったエピソード

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深大寺物語P82~ より

1.昭和15年ごろ大緑地を作る計画で、それに合わせて山林などが買収されました。
その時の補償金が20万円。
当時定期預金の利子が3分。
だから20万円で年間利子は、6千円。この頃の寺は1年で6千円で現金収入でやりくりができたと思われます。
その他、土地が20町歩位で年貢米は何十俵が入って来る為、最低食うには困りませんでした。
喜んだのは、檀家の皆さんで、お寺の維持や修繕のかかりに、もう寄付を出さなくても良いと万歳といっているうちに、戦争が激しくなり、敗戦となりました。
戦後経済の大混乱でトラの子の20万円はあっという間に価値がなくなり、あぶく同然になってしまいました。
何か生き残れる道がないかと考えたところ、たまたま毎日新聞で『新日本観光百選』という、読者がハガキ投票で決めるイベントを行っていました。
この20万円を集中投下。
ハガキは1枚40銭。
地元の青年団が総動員で、朝から晩まで締め切りの日まで宛名書き。
檀家さんもハガキ何十枚寄付します、とかハガキ代にしてください何円寄付しますとか協力くださいました。
結果、12位か13位に入りました。
新聞にはかなり大きく当選記事がのり、過去には戦前から、高浜虚子とか北原白秋などの文人墨客と言われる人達の俳句や詩にちなむ名勝として知られてはいましたが、それほど一般的でなく広く知られるようになったのは『観光百選』からです。
これが今日の隆盛の第一歩です。

2.遠くから多くの人がお参りに来てくださるようになり《何かもうひとつ》と深大寺は昔からそばで有名、これを生かさない手はないと、檀家総代の浅田力造さんです。
先の観光百選の応募の話、を持ち込んだのも浅田力造さんでした。
この結果、東京駅での構内広告『深大寺物語』P94~96)で、これは、都心部とか交通の便のよいところに立地していなかった為、年間行事の広告で 深大寺ここ武蔵野にありと無言のシンボルのように、当時は少なかった年間広告をだしたのも第2の要因でした。

3.深大寺思い出の人、ゆかりの人(『深大寺物語』P104~  )
昭和天皇、秩父宮殿下、島津貴子さま、中西悟堂、黒岩重吾、松本清張

<参考資料>
『深大寺物語-住職がつづる とっておき-』谷玄昭著(東京 四季社)
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