始まり~江戸時代

深大寺そばの歴史(その1)

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深大寺本堂前にて節分会の模様

江戸時代近在の農家から深大寺に寄進されたそば粉を,参拝した人に供したのが始まりとも、
三代将軍徳川家光が鷹狩の途中、寺僧が打つそばの味を激賞し、以後、現在の新宿御苑から毎年献上したのが始まりととも、
更に上野寛永寺大明院法親王の御時、深大寺境内にて作ったそばを献上し、賞賛を得てから、などと諸説あります。(参考文献:『深大寺』 谷玄昭著58年11月6日発行)
<参考資料>
『深大寺物語-住職がつづる とっておき-』(谷玄昭著 東京 四季社)
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深大寺そばの歴史(その2)

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深大寺正門

一方、三代将軍家光の時代の献上そばであったものが、八代将軍吉宗は幕府財政立て直しの「享保の改革」中で、そばは、地味の悪いところでも栽培が可能なことから、深大寺村(今の調布市)の農家に栽培奨励されました。
しかし、大岡越前守は、支配下にある武蔵野の名物そばを将軍家に献上するにあたり、深大寺地方は黒そばで『御用にこれなし』大岡裁きがありました。
(忠相日記に記録あり)…東京新聞1999年8月22日


深大寺そばの歴史(その3)

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深大寺そばを味わう集い(深大寺客殿にて)

深大寺そばの佳味は、江戸の一般庶民にはなお程遠いもので、ごく一部の上層階級のみのものでしたが、やがて江戸時代後期の文化文政年間(1804年~30年)に、江戸文化人の一人太田蜀山人が、幕府の役人として多摩川を巡視した折に、深大寺に止宿して深大寺そばを広く世に宣伝してからは、江戸の人士とりわけ武蔵野を散策する文人墨客に愛され、それが深大寺そばの名を高めたことになりました。(以上、深大寺門前のそば店・元祖嶋田家さんに、代々伝承されているものです。)

深大寺そばの歴史(その4)

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江戸名所図絵(調布郷土博物館資料:解説シートNo.9より)

江戸時代に編纂された『江戸名所図会』は、「当寺の名産とす。是を産する地、裏門の前少しく高き畑にして、わずか八反一畝程のよし。都下に称して佳品とす。然れ共真とするもの、甚だ少なし。今近隣の村里より産するもの、おしなべて此名を冠らしむるといえども佳ならず」
と記され、元来深大寺の庫裡で供されていたそばが有名になるにつれて、深大寺周辺の村々でもそばが栽培されるようになっていったことがわかります。