セピア色の調布~その2

1.<調布で初めての幼稚園は社宅地に>
2.<調布のお嫁さん>
3.<上ノ原のおはなはん>
4.<北部公民館の経歴書>
5.<空からの日本針布全景>
6.<おしゃれ・おめかしの運動会>
7.<お父さん大奮闘 キャンデー20銭>
8.<ハーモニカが主楽器の吹奏楽部>
9.<今日の先生はテレビです>
10.<未来の芸術家達>
11.<マリア修道院は純日本式建物に…>
12.<お手てつないで幼稚園>
13.<看板文字は右から読みます>
14.<ピカピカの新校舎>
15.<44名の眼差しは…>
16.<神代村からの出征風景(1)>
17.<神代村からの出征風景(2)>
18.<竹籠で遊ぶ農家の庭先>
19.<笑い声が聞こえてきます>
20.<姿を消した肥桶(こえおけ)です>
21.<農業を支えてきた野良着>
22.<魚屋の行商は自転車でした>
23.<東京オリッピクで伐採された防風林>
24.<畑に迫り来る団地の波>
25.<校舎の恩人>
26.<慈恵病院は元占領軍の病院>
27.<小学校の手づくりネット>
28.<昭和の雑貨屋さん>
29.<わら半紙の仮通信表(簿)>
30.<和菓子の亀乃子本舗さん >
31.<お寺も託児所に変身>
32.<引越し前の大六天社>NEW!

1.調布で初めての幼稚園は社宅地に

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撮影1950年(昭和25)

 日神幼稚園は1942年(昭和17)に開園した調布で初めての幼稚園でした。日神とは日本針布(株)(西つつじヶ丘2丁目)と神代村の頭文字からきています。園児は日本針布(株)の社員の子ども達でした。
 写真は1950年(昭和25)の運動会風景といわれますが、小旗を振る園児を見ると男の子はみんな坊ちゃん刈りですね。
(写真提供/遠藤利二氏)

(参考資料)
★『調布市教育史』P.349/584【蔵書検索】
▼『図説 調布の歴史』P.201【蔵書検索】

2.調布のお嫁さん

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撮影1951年(昭和26)10月

 調布の嫁入りは、お婿さんの家近くから歩いて行きます。近所の方へのお披露目を兼ねた風習です。
 この写真は甲州街道を歩く花嫁さんです。子ども達も後から行列のように歩く姿が良いですね。
(写真提供/遠藤利二氏)

(参考資料)
★『続 調布の里ものがたり』P.33上【蔵書検索】
▼『調布市史(民俗編)』P.366【蔵書検索】

3.上ノ原のおはなはん

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撮影1962年(昭和37)

 戦後民主主義が力を入れた一つに婦人の活動がありました。神代婦人会の運動会で行われた仮装行列では二人のご婦人が当時のテレビドラマ「おはなはん」夫婦を扮しています。おはなはんを演じた女優の樫山文枝さんに見せてあげたい写真です。なお、後ろの建物は北部公民館の旧建物です。
(写真提供/三宅栄治氏)

(参考資料)
▼『調布市教育史』P.482【蔵書検索】

4.北部公民館の経歴書

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撮影1958年(昭和33年

 北部公民館は、池貝庄太郎氏の別荘として1937年(昭和12)建てられました。戦争中は陸軍の通信隊に使われ、戦後は米軍に接収されていました。返還後の1946年(昭和21)神代村立診療所として開設。その後、空家となるが1959年(昭和34)に公民館として新たな出発をします。この写真は1958年(昭和33)空家 だった時のものです。
(写真提供/河野辺芳枝氏)

(参考資料)
★『調布市医師会20年史』P22/23【蔵書検索】
▼『調布市教育史』P.482【蔵書検索】
▼『郷土博物館だより』28号【蔵書検索】
▼『公民館25年のあゆみ』P.13【蔵書検索】

5.空からの日本針布全景

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撮影1966年(昭和41)

 日本針布を上空から撮影した写真です。今では見られない木造の公民館や社宅、神代中学校々庭も見られます。

(参考資料)
▽調布市立中央図書館(5階参考図書室マップケース内)

6.おしゃれ・おめかしの運動会

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撮影1948年(昭和23)

 敗戦から3年目に催された上ノ原小学校の運動会。遊戯姿の女の子には外出用のおしゃれ服を着せ、昨日刈ったようなオカッパ頭です、親としては最高のおめかしをさせてのわが子の運動会でした。後ろの建物は、まだ兵舎を使用した校舎です。
(上ノ原小学校卒業アルバムより/図書館所蔵なし)

(参考資料)
▼『調布市教育史』P.625【蔵書検索】

7.お父さん大奮闘 キャンデー20銭

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撮影1948年(昭和23)

 上ノ原小学校の運動会々場に開店したPTA売店。オールバックのお父さん達が慣れない手つきで売っているのは、キャンデー20銭、ガラスケースに入ったお饅頭?…。この売り上げが学校の機材や図書になったりしたのです。この日が上ノ原小学校初めての運動会でした。
(上ノ原小学校卒業アルバムより/図書館所蔵なし)

8.ハーモニカが主楽器の吹奏楽部

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撮影1957年(昭和32)

 上ノ原小学校に吹奏楽部が作られたのは1957年の事でした。それは日本針布のブラスバンドの影響といわれます。吹奏楽部といっても、楽器の種類は少なく、主楽器は21名のハーモニカのようです。どうやらこの写真は音楽室で撮ったようで、右上にあのバッハの肖像が見えます。
(上ノ原小学校卒業アルバムより/図書館所蔵なし)

9.今日の先生はテレビです

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撮影1968年(昭和43)

 テレビの普及と共に、教育番組なるものも作られ、授業に取り入れる学校も登場しました。
 この写真は、上ノ原小学校でのテレビ授業風景です。テレビの頭に室内アンテナが付けられています。真剣にテレビに見入る40年前の児童の姿です。
(上ノ原小学校卒業アルバムより/図書館所蔵なし)

10.未来の芸術家達

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撮影1968年(昭和43)

 テレビの次は、工作授業なのでしょうか。上ノ原小学校の教室です。机・椅子と床も総て木製です。机横には体操着入れの布袋が見えます。また棚の上には未来の芸術家の作品、キリンやライオンなどが飾ってあります。これが昭和の教室でした。
(上ノ原小学校卒業アルバムより/図書館所蔵なし)

11.マリア修道院は純日本式建物に…

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撮影1948年(昭和23)

 敗戦後間もない1947年、陸軍病院として使用されていた旧田中銀之助邸を、男子マリア会が周囲の土地 と一緒に購入、翌年には晃華学園を設立します。マリア修道院は純日本式建物に置かれていたのです。
(写真提供/三宅栄治氏)

(参考資料)
★『調布市教育史』P.467【蔵書検索】
▼『新 調布案内』P.15【蔵書検索】
▼『郷土博物館だより』No.28【蔵書検索】

12.お手てつないで幼稚園

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撮影1955年(昭和30)

 マリア会修道院付属「マリアの園幼稚園」入口風景です。モダンな帽子にネクタイ、スカーフと運動靴、楽しそうに手をつないでの帰りなのでしょうか。右上に「汚れなきマリア会…」の看板が見えます。この写真は開園5年後のスナップです。
(写真提供/三宅栄治氏)

(参考資料)
★『調布市教育史』P.4681/589/652【蔵書検索】

13.看板文字は右から読みます

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撮影1947年(昭和22)

 神代中学校最初の運動会です。いでたちを見ると、下駄履きに、風呂敷包み、ぶかぶかズボンが当時を 忍ばせてくれます。でも、極めつけは看板の文字、あの頃は右から読むのです。
(神代中学校卒業アルバムより/図書館所蔵なし)

14.ピカピカの新校舎

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撮影1947年(昭和22)

 神代中学校は通信隊の兵舎を使っての開校でした。その後、ピカピカの新しい校舎も増設されました。窓ガラスも整い、百葉箱も設置されています。松林の奥にある兵舎校舎と比べて見て下さい。
(神代中学校卒業アルバムより/図書館所蔵なし)

(参考資料)
★『調布市教育史』P.332【蔵書検索】
★『神代開校30周年記念誌』P.21【蔵書検索】
▼『よりよき明日を築かなん 開校五十周年記念誌』神代中の移り変わり(1)写真【蔵書検索】

15.44名の眼差しは…

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撮影1953年(昭和28)

 神代中学校の授業風景です。これが一クラスとすると、男子24名、女子20名の合計44名位である事が分かります。生徒さんの澄んだ44名の瞳が印象的な写真です。
(神代中学校卒業アルバムより/図書館所蔵なし)
以上は上ノ原まちづくりの会のご協力をいただきました。

(参考資料)
★『調布市教育史』P.640【蔵書検索】

16.神代村からの出征風景(1)

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撮影1940年(昭和15)

 1937年(昭和12)中国大陸に侵略した日本軍。戦争は泥沼化し、神代村からも出征する兵士が増えてきました。この写真は神代村の出征風景です。畑の道を行進する中に、小さな子ども姿も見えます。
(写真提供/大林孝男氏)

(参考資料)
▼『昭和の枯れすすき』P.7.26【蔵書検索】
▼『神代農業の戦後史』P.6~7【蔵書検索】

17.神代村からの出征風景(2)

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撮影1940年(昭和15)

 前の写真同様に、出征する農民のスナップ写真です。場所は仙川三丁目、甲州街道に面した宍戸自転車店前での出征式の準備なのでしょうか。消防団か警防団の旗を持った人も見えます。
(写真提供/大林孝男氏)

(参考資料)
▼『神代農業風土記』口絵【蔵書検索】

18.竹籠で遊ぶ農家の庭先

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撮影時期不明

 今から10年程前の旧神代村農家の風景です。竹籠も当時の子ども達の遊び道具でした。ユラユラ揺れる様子が見えてきそうです。
(写真提供/大林孝男氏)

(参考資料)
▼『昭和の枯れすすき』P.11【蔵書検索】

19.笑い声が聞こえてきます

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撮影1955年(昭和30)

この一枚は神代村農家の子ども達です。カメラを向けられて手を後に回し、笑う姿がまさに旧神代村の「三丁目の夕日」といえます。
(写真提供/大林孝男氏)

(参考資料)
▼『神代農業風土記』口絵【蔵書検索】

20.姿を消した肥桶(こえおけ)です

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撮影時期不明

 昭和の時代まで、畑の肥料として人糞が使われていました。都心から馬車や自動車で運んでいました。今はその姿を消しましたが、その容器が肥桶でした。
(写真提供/大林孝男氏)

(参考資料)
▼『昭和の枯れすすき』P.11【蔵書検索】

21.農業を支えてきた野良着

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撮影1940年代(昭和15)

 1940年代の野良着姿です。今の野良着とは大分違いますが、旧神代村の農民はこの野良着で農業を支えていたのです。
(写真提供/大林孝男氏)

(参考資料)
▼『神代農業風土記』口絵【蔵書検索】

22.魚屋の行商は自転車でした

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撮影1937年(昭和12)

昭和時代の行商です。自転車の荷台に魚が入った木箱を積んで、農家を回ります。注文があれば、その場で魚をさばきまもします。旧神代村にも回っていたのですね。
(写真提供/大林孝男氏)

(参考資料)
▼『神代農業風土記』口絵【蔵書検索】

23.東京オリンピックで伐採された防風林

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撮影時期不明

 東京オリンピックは1964年(昭和39)に開催されましたが、甲州街道はマラソンコースと決定、開催前に街道の拡張と整備が行なわれました。街道沿いの防風林や欅の大木等が次々と伐採されたのです。(写真提供/大林孝男氏)

(参考資料)
▼『神代農業風土記』P.24~25【蔵書検索】

24.畑に迫り来る団地の波

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撮影時期1985年代

 経済高度成長期、調布市の農地にも宅地化が進みました。旧神代村の農地も次第に宅地になり、昭和60年代には、写真のように農地間近に団地が迫った風景も多くなりました。
(写真提供/林孝男氏)

(参考資料)
▼『ビルの谷間に沈む農地』P.11【蔵書検索】

25.校舎の恩人

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写真/調布中学校開校15周年誌より

 敗戦後の1947年(昭和22)に開校した調布中学校、校舎は旧調布飛行場の兵舎を使用したものです。
占領軍に接収された兵舎を校舎に転用できるように協力した人物がエリオット中佐でした。
 写真は帰国前に、家族で調布中学校を訪問したものです。
 1948年(昭和23)7月11日に帰国する時は、全校生徒が見送ったと記録されています。

☆『調布市域の空襲と敗戦』2
★『調布中学校開校15周年記念誌』P.13
▼『調布中学校開校15周年記念誌』口絵写真
▽『調布市教育史』P.331~332


26.慈恵病院は元占領軍の病院

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写真/JUKIグローバル50より

 戦時中、国領町で九九式小銃を製造した東京重機工業(株)は、敗戦後GHQの接収対象でした。
 接収のために会社に乗り込んできたのが米軍医療大隊のM・トニック少佐でした。山岡社長との交渉の結果、
現在の慈恵第三病院部分が接収され、占領軍兵士の病院となりました。接収解除後も病院として独立して現在に至っているのです。

☆『調布市域の空襲と敗戦』2
▼『JUKIグローバル50』P.95
★『『東京重機三十年史』P.105

27.小学校の手づくりネット

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写真/二小 創立五〇周年記念誌より

 敗戦直後に開校した調布第二小学校の体育の写真です。
バレーボールがやりたいとの児童の希望を実現するために先生達は考えました。そして、農家から藁をもらい縄をない、このネットを作ったのです。
 1948年(昭和23)に実現した夢のバレーボールでした。

★『二小 創立五〇周年記念誌』P.18

28.昭和の雑貨屋さん

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写真/高橋弘子さん提供

 旧甲州街道の布田近くにあった昭和10年代の雑貨屋さんです。生活雑貨が揃うお店です。
ライオン歯磨きのキャンペンで写した一枚のようですが、店頭には、ほうきにコタツ・ろうそく・練炭や板状の布海苔が見えます。
店頭の人は草履ばきで、自転車からも時代が分かります。まさにセピア色の昭和です。

29.わら半紙の仮通信表(簿)

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資料写真/高橋弘子さん提供

 そんな通信表なんてと思いでしょうが…、それがあるのです。
写真の調布第一小学校が発行した「昭和22年度 通信表(假)」がそうなのです。
敗戦の二年である昭和22年二学期の通信表で、当時は紙不足で通信表ですら わら半紙にガリ版で印刷されたものでした。
通信表の仮(假)の文字は、年度末ではなく二学期のためと考えられます。それにしても「優」が並んだ通信表ですね。

▼『ビジュアル 学校の歴史 1』P.29

30.和菓子の亀乃子本舗さん

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 国領駅近くにある和菓子屋さんの昭和25年頃の写真です。
 亀吉さんの娘の店なので店名が亀乃子本舗だそうです。座布団一枚!
 写真の大久保彦市さんは、敗戦後重機で作られたドングリパンの生みの親でもあります。
 当時のカッポウ着に下駄履き姿、店頭の左にはアイスのモナカが入ったガラスケースも、今は珍しい昭和の風景となりました。

31.お寺も託児所に変身

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撮影/大正寺本堂 1942年(昭和17)

 戦時中、都市の幼稚園・保育園は閉鎖されました。空襲を案じて一部の保育園では幼児と保母さんで地方に疎開した園もありました。逆に食糧増産のため、農繁期に託児所を開設したお寺もありました。
 写真の大正寺(調布ヶ丘)も1941年(昭和16)5月に農繁期託児所が開設されました。保育料を無料で農繁期に農家の子どもを預かりました。

(参考資料)
  ★『保育園の疎開』
  ▽『月刊 ちょうふ★と~く』Vol.46 P.12

32.引越し前の大六天社

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不明:深沢氏提供

 かつて八雲台小学校敷地にあった八雲神明社は、多摩川の畔にあった大六天社が合祀され大六天社となりました。更に、1963年(昭和38)に国領神社に合祀されました。
 この写真は、国領神社に合祀される直前のお別れ式のようです。軍帽や襷が見られる世相を写した写真といえます。
  ▼『調布市史 下』P.100
  ▼『調布市史 民俗』P.482