街中の足跡

街中の足跡 リスト

【注】=許可を得て敷地内に入るか、外から見てください。


1.<円福寺の墓地>
2.<常演寺の焼夷弾跡>
3.<無縁墓>
4.<西光寺の釣鐘>
5.<調布稲荷の椿>
6.<相馬家の墓>
7.<勤労奉仕の犠牲者>
8.<仙川公園のプラタナスの樹>
9.<地下射撃場(東映ラボ)>【注】
10.<重機神社>
11.<延命観音の防空壕>
12.<飛行場からの引越し>
13.<焼け残った柿木>
14.<国領町からB29酸素ボンベ>
15.<旧相馬安雄宅>
16.<今も残る防空壕>
17.<幻の同盟農場>
18.<大きな凱旋奉納板>
19.<津村薬用植物園>
20.<眠りからさめた1トン爆弾>
21.<無事帰ってきた9名の兵士>
22.<天然理心一門が納めた奉納板>
23.<戦争反省の「不忘の碑」>
24.<通信隊の松ノ木>
25.<競売で購入した天井板>
26.<調布飛行場近くから米軍機のプロペラ>
27.<塞がれた防空壕>
28.<削られた文字>
29.<遺族におくられた1.5坪>
30.<家族全員の氏名が一日で彫られた墓石>
31.<14歳の少女とおばあちゃん>
32.<供出されなかったもう一つの梵鐘>
33.<空襲を知らせた梵鐘>
34.<日露戦勝記念の梅ノ木>NEW!

1. <円福寺の墓地(国領町5-14)>

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円福寺

 布田駅の南側にある円福寺の墓地には、調布の空襲に係る三つの墓があります。
* 河栗家の墓<写真>
 国領に4月7日墜落したB29の主翼下で死亡した河栗家八名の墓です。
* 竹内家の墓
 1945年5月25日の空襲で死亡した竹内家の墓があります。 
* 米兵の埋葬地跡
 4月7日に墜落したB29の搭乗員(10名)が埋葬されていました。敗戦直後、米軍が遺骨を引き取りに来ました。

<参考資料>
☆ 『僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞社) 【蔵書検索】
☆『続 僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞社) 【蔵書検索】
▼ 『太平洋戦争と調布』(調布史談会) 【蔵書検索】
▼ 『日本空襲の全容』(東方出版) 【蔵書検索】
▽ 『GHQ資料』(国会図書館)

2. <常演寺の焼夷弾跡(下石原1‐52)>

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常演寺の焼夷弾跡

 常演寺は甲州街道に面したお寺です。
 5月25日にB29が投下した焼夷弾の一本が、仁王堂に垂直に直撃、六角型の跡がコンクリートに残りました。
 現在、仁王堂はなくなりましたが、その時の焼夷弾と跡のコンクリートがお寺で保存されています。

<参考資料>
☆ 『僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞社) 【蔵書検索】

3. <無縁墓(下石原1‐52)>

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小さな無縁墓

 同じ常演寺の境内にある無縁墓です。戦時中、調布飛行場の空襲で死亡した兵隊の遺体を葬った墓でもあります。埋葬者名は軍の命令で一切記録する事ができませんでした。

<参考資料>
☆ 『『僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞社) 【蔵書検索】



現在は見られません。

4. <西光寺の釣鐘(上石原1‐28)>

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西光寺の釣鐘

 金属の供出(くろがねの動員)は、各家庭から寺院の仏具まで及んでいます。調布市でも19の寺院が供出した事が確認されています。西光寺の釣鐘も供出する事になっていましたが、運搬手配がつかず残りました。

<参考資料>
☆ 『僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞社) 【蔵書検索】
☆『天台宗長谷山西光寺』(長谷山西光寺)p.14~16

5. <調布稲荷神社の椿(国領町4‐12)>

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調布稲荷神社

 この稲荷の椿は国領に墜落したB29搭乗員の一人がパラシュートで降りてきた椿です。 それを取り囲んだ町民によって米兵は惨殺されました。調布の負の歴史現場でもあります。

<参考資料>
☆ 『僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞社) 【蔵書検索】
▼ 『太平洋戦争と調布』(調布史談会) 【蔵書検索】
▽『GHQ資料』(国立国会図書館)

6. <相馬家の墓(府中市多磨町4)>

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相馬家の墓(多磨霊園)

 新宿にあるカリーの中村屋二代目社長(相馬安雄氏)の家は、調布町小島町にありました。その家にいた四男徹君は、5月25日の空襲で焼死しました。そのお墓は多磨霊園にあります。

<参考資料>
☆ 『僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞社) 【蔵書検索】
★ 『晩霜』P164(東西文明社)【蔵書検索】

7. <勤労奉仕の犠牲者(富士見町1‐36)(光岳寺)>

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勤労奉仕の犠牲者の墓

 光岳寺に調布国民学校四年生のお墓があります。その子は、1943年(昭和18)2月に勤労奉仕の過労が原因で死亡した女の子でした。

<参考資料>
☆ 『僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞社) 【蔵書検索】

8. <仙川公園のプラタナスの樹(三鷹市新川3‐7)>

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仙川公園のプラタナスの樹(三鷹市新川)

 5月25日に投下された焼夷弾は、三鷹市新川にも被害を出しています。
 このプラタナスの木2本は、新川交差点の自転車屋前で空襲に遭遇して、樹木の内部が焼けてしまいました。その後、この仙川公園に移植したものです。

<参考資料>
☆ 『僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞社) 【蔵書検索】
▼ 『いま語り伝えたいこと』(三鷹市)【蔵書検索】

9. <地下射撃場(東映ラボ) (国領町8‐9)>【注】許可を得て敷地内に入るか、外から見てください。

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 この工場は、かつての地下射撃場でした。東京重機工業で造られた小銃をここで試射してから出荷しました。
地下には、今も階段・鉄の扉や天井に当時を見る事ができます。

<参考資料>
☆『東京重機三十年史』(東京重機)【蔵書検索】
★『僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞社) 【蔵書検索】
★『続 僕の調布にも空襲があった 』(みんな新聞社) 【蔵書検索】

10. <重機神社(国領町8)>

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移された重機神社

 現在の神社は以前の場所から移動されたものですが、小銃を製造するために創立時に東京重機工業が建立した神社です。
 本社移転にともない、多摩センターに移築されました。

<参考資料>
☆『東京重機三十年史』(東京重機)【蔵書検索】
★『続 僕の調布にも空襲があった 』(みんな新聞社) 【蔵書検索】
▼ 『JUKIグローバル50』(東京重機) 【蔵書検索】

現在は見られません。

11. <延命観音の防空壕(深大寺元町5‐11)>

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延命観音の防空壕(深大寺元町5-11)

 深大寺にある延命観音は、萬霊塔下崖の祠に置かれていますが、その祠は、かつての防空壕でした。隣の穴も同様の防空です。

<参考資料>
▼ 『門前そば一代記』(雪書房) 【蔵書検索】
▼ 『深大寺』(深大寺) 【蔵書検索】

12 <飛行場からの引越し>

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飛行場からの引越し(道生神社)

 1939年(昭和14)調布飛行場の建設が始まりました。敷地内あった三つの寺院、1つの神社は追い立てられるように敷地の外に強制移転させられました。
A、長専寺(富士見町1-35) 
B、覚證寺(富士見町1-35) 
C、光岳寺(富士見町1-36) 
D、道生神社(飛田給2-39) 

<参考資料>
☆ 『僕の調布にも空襲があった』(みんな新聞) 【蔵書検索】
▼ 『調布史談会誌 26号』(調布史談会) 【蔵書検索】
▼ 『調布町沿革誌』(調布町役場) 【蔵書検索】

13. <焼け残った柿木>

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石坂宅の柿木

 超最近発見した柿木(禅寺丸)です。61年前の1945年(昭和20)5月25日の空襲で幹の半分が焼けましたが、今も生きています。
 空襲体験の生き証人として「調布の木」に指定して欲しい木です。

▼ 『朝日新聞 むさしの版 2006年9月5日』

14. <国領町からB29酸素ボンベ>

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撮影/2005年9月10日

 英文の書かれた黄色いボンベです。
 2005年10月に国領町7丁目の元防空壕から
発見されたものです。どうして、国領にB29のボ
ンベがあったのか正確な事は不明です。
 ただ、戦時中の1945年(昭和20)4月7日、国領
にB29爆撃機が一機墜落した事があります。そ
の事実を考えると、その時のボンベの可能性が
高いようです。
 胴体には「BREATHING OXYGEN」(呼吸のための酸素)と書かれています。
 B29爆撃機の酸素ボンベを所蔵しているのは、日本広といえども調布だけでしょう。(現在 調布市立郷土博物館に所蔵されています)

<参考資料>
▼『B-29操縦フライトマニュアル』P27(光人社)
▼『B-29 SUPERFORTRESS VOL.25』P25

15. <旧相馬安雄宅(中村屋)>

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撮影/2006年12月14日

 調布ヶ丘1丁目にある都立調布養護学校の敷地は、
カリーでお馴染みの中村屋の二代目社長=相馬
安雄氏の家がありました。戦時中、この辺では
珍しいコンクリート製の防空壕がありました。
 1945年(昭和20)5月25日の空襲で、大きな被害を出しています。

<参考資料>
☆ 『晩霜』P164(東西文明社)【蔵書検索】
★『調布市百年史』P373(調布市)【蔵書検索】
★『僕の調布にも空襲があった』P324(みんな新聞社) 【蔵書検索】

16. <今も残る防空壕>

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撮影/2006年12月10日

 入間町1丁目の崖下にある防空壕跡です。
崖の土を掘った防空壕は、今となってはほ
とんどが埋められてしまい、ここの防空壕
も入口の一部を残して土に埋まっています。
防空壕は、かっては深大寺小学校横の崖
やカニ山にも見られました。
 この入間林の防空壕は入間樹林の会が、
林を整備する中で発見されました。

土砂崩れのため、現在は見られません。 

 <参考資料>
▼『ちょうふの自然だより 72』(調布市環境保全課』

17. <幻の同盟農場>

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撮影/2007年10月15日

 1942年(昭和17)調布の河川敷に同盟農場が開設され、酪農と農場を合わせた開拓が戦時中も行なわれていた。場所は電気通信大多摩川グランド周辺(多摩川7丁目)しかし、まだまだ謎の多い農場です。

(参考資料)
☆『幻の開拓集団 同盟農場』(みんな新聞社)
【蔵書検索】
★『調布町沿革誌』広告(調布町役場)
【蔵書検索】
★『古野伊之助』P371/537(新聞通信調査会)
▼『住宅地図 昭和45年版』P44
【蔵書検索】

18. <大きな凱旋奉納板>

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撮影/2007年9月25日

 布多天神の神楽舞台にある大きな奉納板」です。板には、大きく「凱旋記念」と書かれており、明治二七年の文字から、日清戦争のものである事が分ります。下の段には、帰国した人々の名前が並び、無事帰国した安堵の気持ちを読み取る事ができます。
【注/毎月25日の市など、神楽舞台が開いている時しか見られません】

(参考資料)
▼『北多摩神社誌』P213/214(むらさき会)【蔵書検索】
▼『北多摩神社・界わいガイドブック』P31(北多摩神道青年むらさき会)【蔵書検索】
▼『調布市史 民俗編』P259【蔵書検索】

19. <津村薬用植物園>

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撮影2008/04/22

 三鷹市と現在の白百合女子大学に跨る地域には、かって津村薬用植物園がありました。その一角に満州開拓団に行く人のために、自然の薬草を教える研修場があり、間接的ではありますが、薬草植物園が中国侵略に一役買っていたのです。
その場所には、かって来園者の休憩場であった「めぐみ荘」が残っています。現在は女学生の茶道部の場となっています。

<参考資料>
☆『研究論集 XVII』(東京都埋蔵文化財センター)P43~【蔵書検索】
★『白百合女子大学創立25周年記念誌』(白百合女子大学)P13【蔵書検索】
★『白百合女子大学新聞』(白百合女子大学新聞部)2号・8号


20. <眠りからさめた1トン爆弾>

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[写真は調布市総合防災安全課提供]

 2008年(平成20)3月27日、国領駅近くから、戦時中の1トン爆弾が発見されました。
 1945年4月7日、中島飛行機武蔵製作所への最後の空襲時に飛来した107機の内、調布上空で日本の戦闘機「飛燕」に体当たりされた一機から落下したものと思われます。爆弾撤去は町民16,000人を避難させた上、5月18日に行われました。

<参考資料>
☆DVD『調布市不発弾処理の記録』(調布市)【蔵書検索】
▽『毎日新聞』 2008年5月12日朝刊(毎日新聞社)
▽『夕刊フジ』 2008年5月21日(産経新聞社)
▽『市報 ちょうふ』2008年4月 防災臨時号(調布市)
▽『作戦任務報告書TMR』(国会図書館)

21.<無事帰ってきた9名の兵士>

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撮影2009年12月6日

 深大寺の元三大師堂に納められた日清戦争の「凱旋記念奉納版」。この戦争では、日本から約24万人が出征、約1万3千が戦死や戦病死しています。戦地から無事帰還した神代村民の感謝の気持なのでしょう。

22.<天然理心一門が納めた奉納板>

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撮影2010年2月5日

 1907(明治40)、近藤勇の流れを汲む天然理心流一門が深大寺に奉納した奉納板です。日露戦争で死亡した5名と、出征兵士62名の門下生の名前が書かれていました。正面には、武道の徳を表した「武徳」の字が大書されています。深大寺元三大師堂で見られます。

<参考資料>
☆「郷土博物館だより」No.58 P.4~6

23.<戦争反省の「不忘の碑」>

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撮影2011年6月10日

 西つつじヶ丘二丁目にある延浄寺。境内に鈴木則子さんが建立した不忘(わすれじ)の碑があります。
 碑文「國に従って 国に棄てられた人びとを忘れず ふたたび 同じ道を歩まぬための 道しるべに」は、満蒙開拓団民の悲劇を今も問いかけています。國と国、意味深い二文字です。

<参考資料>
☆不忘の碑

24.<通信隊の松ノ木>

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写真/2012年4月1日撮影

 戦時中、この上ノ原一帯に陸軍の燕19185通信隊がありました。
 部隊の敷地内には、高い松の木を利用した監視櫓が設置されていました。
 写真の松の木は、上ノ原小学校前にあるもので当時からあった部隊の松ノ木です。

<参考資料>
★『調布市 2012 ゼンリン住宅地図』P.37【蔵書検索】
▼『調布市域の空襲と敗戦』(敗戦・占領編)P.315【蔵書検索】

25.<競売で購入した天井板>

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写真/2011年11月13日撮影

 戦争が終わると燕19185通信隊は解体され、残された60棟の軍用建物の一部は神代中学校々舎等に利用されました。
 また幾つかの軍用施設は、解体され古材として、競売に掛けられたものもありました。この写真(上)の天井板は、西つつじヶ丘2丁目の石井林蔵さんが購入し、納屋の天井板として再利用したものです。
 現在も納屋の天井板として役目を果たしています。

<参考資料>
▼『調布市域の空襲と敗戦』(敗戦・占領編)P.299

26.<調布飛行場近くから米軍機のプロペラ>

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(写真/2011年10月16日:調布飛行場祭り)

 2011年(平成23)3月8日、調布飛行場近くの道路講義現場で真っ赤に錆びたプロペラが発見されました。材質は鉄が主成分の合金。
小室克介氏は、米軍の艦上爆撃機ヘルダイバー(SB2C)=愛称がカイツブリの特殊なプロペラだと見立てました。プロペラの中は空洞になっています。
なぜ、ここに埋もれていたのかは謎です。単に米軍が破棄して埋めたのか。はたまた、近くにあった日本楽器(株)は戦時中に金属製プロペラを製造しており、墜落したヘルダイバー機をその研究のために使った後に埋めたのではとの推測もあります。

<参考資料>
★日本航空ジャーナル協会機関誌『風点ニュース』P.10~12【この部分のコピーは中央図書館にあります】
▼『ヤマハ100年史』

27.<塞がれた防空壕>

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(写真/2013年5月5日撮影)

 つつじヶ丘3丁目にある防空壕跡です。戦時中は家財道具や人が入り防空壕として使用されていました。持ち主の話しでは、中は反対側の道まで通じる程広いものだったそうです。
現在は危険なので、埋め立てられブロックで塞がれていますが、以前は、若葉小学校児童の平和教材として活用されていました。

28.<削られた文字>

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撮影/2013年10月12日

 布多天神社境内にある日清戦争の忠魂碑です。よく見ると「忠魂碑」の「忠」の文字がノミで削り取られています。これは敗戦直後に調布町民が行ったもので、進駐軍に忠魂の文字を戦争賛美と受け取られる事を避けるための行為だったのです。

<参考資料>
★『調布市域の空襲と敗戦』(敗戦・占領編)p.107【蔵書検索】

29.<遺族におくられた1.5坪>

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写真/2014年5月29日撮影

1943年(昭和18)10月8日付けの読売報知(三多摩版)に、戦死した下石原町内の遺族に、円福寺から墓地1.5坪が提供された記事があります。
町の英霊とされた今井健一郎伍長の墓ですが、現在も円福寺墓地にひっそり墓石が建っています。墓石には中村市郎町長の文字で戦歴が克明に彫られています。
 <参考資料>
 ★『調布市域の空襲と敗戦』(敗戦・占領編)P.69
▼『読売報知(三多摩版)』昭和18年10月8日付け

30.<家族全員の氏名が一日で彫られた墓石>

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写真/2014年5月29日撮影

 1945年(昭和20)4月7日、B29爆撃機が日本軍機(飛燕)の体当たりで墜落しました。
その主翼が国領の河栗家の防空壕に覆い被さり、中の一家8名が焼死しました。お墓は円福寺墓地にありますが、近くに墜落で死亡したB29搭乗員も一時埋められていました。
墓石には1歳の勇君~13歳の和子さんと両親の名前と4月7日の文字が並んでいます。
 <参考資料>
 ★『調布市域の空襲と敗戦』(空襲記録検証編)P.58,76,128-129

31.<14歳の少女とおばあちゃん>

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 写真/2014年5月29日撮影

 調布市域の焼夷弾による最大の空襲は1945年5月25日のものでした。甲州街道沿い、絵堂、国領、上ヶ給、下布田にも焼夷弾による被害が出ています。
国領5丁目36番地の竹内家にも直撃し、はな(62)さんが即死、喜久枝(14)さんは火傷を負って、2ヶ月後の7月21日に死亡しています。
二人のお墓は円福寺墓地にあります。
 <参考資料>
 ★『調布市域の空襲と敗戦』(空襲記録検証編)P.92-93,129  

32.<供出されなかったもう一つの梵鐘>

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写真/2015年6月8日撮影

旧甲州街道沿いにある蓮慶寺さん。鐘楼に吊らされた梵鐘は1864年(元治1)に鋳造されたもので、戦時中には金属供出命令がありました。
 梵鐘は地上に降ろして運び出す準備をしていましたが、運ばれず、現在も鐘楼に吊るされてあります。供出を免れた理由は今もって不明です。
 <参考資料>
 ☆『金属の供出と代用品』P.68

33.<空襲を知らせた半鐘>

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写真/2015年4月28日撮影

仙川にある消防団第13分団詰所に一つの半鐘が保存されています。旧警防団時代に金属供出で団の半鐘は持っていかれました。
 空襲を知らせる半鐘が必要なので、近くの昌翁寺の半鐘をもらい使用していました。その半鐘は現在も詰所内で保管されています。
 但し、建物内なので、普段は見ることはできません。
 <参考資料>
 ★『僕の調布にも空襲があった』P.158
☆『分団のあゆみ』P.17
 

34.<日露戦勝記念の梅ノ木>

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2016年10月17日撮影

 調布駅南口広場にある梅の古木です。この樹は、1905年(明治38)の日露戦争勝利を記念して、翌年の明治39年10月に、ここにあった調布国民学校で催された凱旋祝賀会の時に植えられた梅ノ木です。
 それから110年経た昨年、その事実が確認されました。調布市は伐採を決めていましたが、撤回して現在も春には花を咲かせています。
 <参考資料>
 ★『調布市史(下)』P.373~375(萩原与兵衛日記) 【蔵書検索】

基本情報

問い合わせ: 調布市立中央図書館 地域情報化担当
042-441-6181