安部公房-若葉町

<作家紹介>

 1924年(大正13年)現在の東京都北区西ヶ原で生まれました。満州で育ち、東大医学部を卒業しましたが、医師になりませんでした。1951年(昭和26年)小説『壁―S・カルマ氏の犯罪』を発表し、第25回芥川賞を受賞しました。以後,下意識のイメージを解放して空間的に造形する乾いた硬質の前衛作品を、小説だけでなく、演劇、映画、ラジオ、テレビといった広い分野で実験しつづけました。作品は世界各国で翻訳され、内外でさまざまな賞を受賞したほか、何度もノーベル文学賞候補に挙げられました。
 ■1959年(昭和34年)現在の若葉町1丁目に家を建てて中野区野方の借家から移り住みました。6年後のエッセー『多摩丘陵のドライブ』で「ぼくの家は,武蔵野の高台の崖のはずれにある」と書いた家です。土地は岡本太郎に紹介されて以来前衛芸術運動の盟友だった勅使河原宏から譲り受けました。以来、箱根の山荘で暮らすことはあっても、ずっとその家に住みつづけました。
 ■調布と縁の深い活動は演劇です。1966年(昭和41年)桐朋学園大学の短期大学部芸術科に演劇コースが作られました。若葉町の家で重ねられた会合の成果でした。発足と同時に教授に就任し、それを機に台本を書くことから舞台を創ることへ進みます。1973年(昭和48年)には演劇集団「安部公房スタジオ」を結成して主宰し「全面的に演劇活動に参加し」ます。俳優の肉体を生理に引き戻してイメージに変える独特の訓練法による舞台創造は、1979年(昭和54年)米国で公演して絶賛を博した「イメージの展覧会」『仔象は死んだ』で頂点に達しました。間もなく「安部公房スタジオ」は自然消滅しましたが,そこで訓練された俳優たちは現在も「安部システム」を実践して活躍しています。その後も長篇小説を発表しつづけ、1993年(平成5年)69歳の年に実験を貫いた生涯を閉じました。若葉町の家は一人娘の医師ねりさんが継いでいます。


<作品紹介>

『壁―S・カルマ氏の犯罪』(『安部公房全作品 2』収載)

 主人公は目を覚ますと胸が空っぽになっている。名前に逃げられたのだ。出勤すると「ぼくの名刺」が席に着いている。病院へ行く。待合室のグラビア雑誌で「記憶の底に開かれた窓」のような「曠野」の風景に見入ると「胸の陰圧」がその風景を吸い込んでしまう。動物園へ行く。ラクダを見ていると窃盗の現行犯で逮捕される。動物園の地下法廷で裁判にかけられる。「被告がこの世界の内に留まる限り、法廷は被告の後を追ってゆく」と宣告されて常時監視がつく。法廷から逃れる方法はただ一つ、世界の果」に行ってしまうことだ。「世界の果」は「ぼくの胸にひろがっているあの不毛の曠野」だ。出発の具的方法、「それは、壁の凝視にはじまる」。「壁、それは古い人間のいとなみ」で「人間の仮説」だ。壁を見つめるうちに主人公は壁を吸収して曠野に入り込む。やがて曠野から壁が成長しはじめ、主人公は壁に変形してしまう。主人公はついに「自己をメッセージとして自己に贈りとどける使者」となることに成功したのだ。


                          

 芥川賞を受賞した当時,埴谷雄高,花田清輝,石川淳はこの作品を高く評価しました。選考委員は,瀧井孝作を除けば,あまり評価しませんでした。受賞自体が「抱き合わせ受賞」で,一緒に受賞した,現在では忘れ去られている石川利光の物足りなさを補う形でしたし,「文藝春秋」もこの作品は載せず,短篇集『壁』に収められた掌編2篇を申し訳程度に載せたにすぎませんでした。
 ■ここでは処女作を世に出してくれた埴谷雄高の書評を紹介しておきます。
 ■「安部公房は,ハイデッガーから出発した。そして,かなり変わった言い方を敢えてしてみれば,文学的には椎名麟三と埴谷雄高から出発した。この両者が観念的で,物体の内的法則を追求する方法論を小説のなかに索めたからである。安部公房と日本文学が接触したのは,これが最初であり,しかも最後であった。彼は十九世紀的な尾をひいた両者の脈を通りすぎて,二十世紀のアヴァンガルド芸術に突入した。」「安部公房のその後の仕事はこの最前線をうんと踏み出てみようとする冒険的な試みとなった。そして同時的,多面的,動的な観察を許す空間の中で物体のリアリティを追求しようとする前衛絵画の方法論を,あくまで人間に適用しつづけることによって,彼はついに,一つの見事な作品を得たのである。『壁』である。」(「安部公房『壁』」)
(安保)


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